模糊白々
10月31日──現代日本においてはハロウィンを名乗るだけのお祭り騒ぎに合わせ、呪術界を転覆させる為に虎視眈々と準備を進めている呪霊一派。残すところ一週間を切ったある日の事、難しい顔で唸った漏瑚が、重々しく口を開いた。
「儚。やはり貴様はここに残れ」
「何故?」
儚は間髪入れずに問い返す。漏瑚の額にビキリと青筋が立つ。
「足手纏いだと言っておるのだ! 貴様などおらずとも、作戦に何ら支障はない!」
実のところ、儚が渋谷で行う作戦に同行するか否か……という議題は何度か挙がっていた。挙げていたのは主に漏瑚である。理由は言わずもがな、儚が戦闘能力を有していない事にある。“いてもいなくても変わらない”というのは概ね事実であり、夏油もそう判断を下している。だが『いてもいなくても変わらないが、役割はある』『だから同行する』という結論に至ったはずだった。
しかし漏瑚は、未だその結論に納得しておらず、こうして儚本人に向かって「来るな」と直談判をしている次第である。
儚は身を乗り出して漏瑚に顔を近づける。苛立ちを露わにしていたはずの表情が、目と鼻の先程の距離まで縮まったかんばせを前にして、いとも容易く剥がれていく。
「ぼくが失われるのは惜しい?」
「な……ッ!」
確信めいた言葉と、嫣然とした微笑み。狼狽えた漏瑚が身体を仰け反らせると、傍で二人を見ていた真人が、堪え切れないといった様子で吹き出した。
「図星じゃん、漏瑚!」
「





」
「あぁ、そうなの?」
花御に諌められた真人は、少し意外そうに片眉を上げた。
「俺は先生と一緒に行きたいよ。褒めてもらいたいしね」
「ぼくは当然行くつもりですからご安心を」
儚自身の弱さは本人が一番よく理解しているところだ。最大の目的である“五条悟の封印”における危険性を重々承知の上で、儚は参加することを決めている。「足手纏いにはなりませんよ」と、儚は漏瑚に向かって語り掛ける。“足手纏いだから来るな”という漏瑚のそれが、ただの方便であると分かっていながら。
「半端に立ち向かったりなどしないとも。ぼくが引き時を誤ると思います?」
「…………」
漏瑚は口をへの字に曲げ、ぶっすりと黙り込んだ。ともすればその辺を彷徨っている低級呪霊よりも簡単に祓われてしまうであろう儚が、およそ200年以上の時を生き続けられているのは、逃げるべき時に逃げたからだ。呪術師に目を付けられるほど派手に動いていないというのも勿論あるのだが、実績があるのは認めざるを得ない。
しかしこの中で実際に五条悟と対面したことがあるのは漏瑚のみだ。あの規格外の強者を肌で感じている身としては、儚の様なか弱い存在は近づくことすら憚られるだろうと、そう思うのだ。
「そもそも、ぼくが与えられた役割はきみ達の手助けですよ。漏瑚、花御も。不要だとしても、あるに越したことはないのでは?」
「……


」
「仲間の手助けくらい、させてくださいな」
漏瑚は一つ目でギロリと花御を睨むと、不満げに頭頂部から火花を散らしながらその場を後にする。花御も、じっと儚を見つめた後、それ以上は何も言うことなく漏瑚に続いた。その後ろをぶうぶう鳴きながら陀艮が着いて行く。
儚は眉を下げ、悲しげな溜息をつく。
「嫌われてしまいましたかね」
「まさか。そんな事ありえないよ」
いつか迂愚な少年にそうしてみせた様に──相手に安心感を与える言葉を、屈託のない笑みと共に向ける。儚はつられるように笑みを零した。
「真人がそう言うのなら、そうなのでしょうね」
誠意のある言葉には、信頼でもって返す。いつも通りのやり取りだ。
呪霊同士の仲間意識があり、真人は儚を好意的に思っていて、儚も真人を信じている。
「俺、先生のこと好きだよ」
普段と変わらない調子で、真人が言った。儚は「それはどうも」と返す。にこりと目を細め、お手本のような笑顔を作った真人は続ける。
「俺達のこと何とも思っていないところもね」
興味が無い相手にこそ優しくできるってモンでしょ。
その様な言葉を向けられても、儚は動揺を見せなかった。咄嗟に否定することもなければ、惚けることもなく、また肯定することもない。
真人だからこそ分かることであった。この世で唯一、魂の形を認識できる存在であるからこそ。
感情により魂はその姿を僅かに変化させる。これを真人は“魂の代謝”と定義づけていた。その代謝を観察することで、表情や声音が食い違っている感情を、ある程度見透かすこともできる。
人間の魂を揺さぶる方法を模索する真人は、儚にも確かに存在する“魂”を観察することで、もうずっと前から気づいていたのだ。──自由とか不自由とか、そんなものを通り越しているのだと。
以前、ほとんど魂を代謝させることのなかった、比較的自由な人間を眺めていたことがある。人間の癖に随分と穏やかで自由なものだと、一瞬だけ感心した貴重な経験だったが、その魂でさえも不動ではなかった。生物として“生きている”と認識できる程度の代謝はあったのだ。
だが儚は違っていた。人間を前にしても、呪霊を前にしても。呪っても呪わなくとも、話していても黙っていても。何をしていても何もしていなくても。
魂は揺らぎを見せなかった。楽しげに人間を呪った時でさえ、何も変わっていないのだ。呪いとしての本能に従っているという事実だけがあり、愉しんでいるように見せかけていただけなのだ。本能に従い、快を得る。それは人間も呪霊も同じことであるはずなのに。
「先生はよく“愛”を口にするけど、実際のとこどうなの? 興味なんてないのに、求める意味はある?」
「何も感じずとも、何も考えていない訳ではないからね」
「それもそっか」
何か一つ間違いでも起きていたら、儚は人間の味方さえするだろうと真人は思う。仲間意識っぽいものと、信頼を置いているかの様な見せかけ。それが真人たちに向けられている表面だ。執着がないからこそ、ひょんなことから掌返しをする可能性がある儚を、真人は責めるつもりはない。
空っぽで、薄っぺらくて、どこかへ居着く為の根すら生えないのは、儚がそういう風に生まれたからだ。そんな呪いを、人間は生み出した。
在り方を変えようという思考すら生まれないのだとしても、不変を貫く儚の在り方は美しい。儚にとって、変化とは劣化だ。
とはいえ、漏瑚が知れば怒って“縛り”のひとつでも科しそうだと思う真人。儚の離反を封じたとして、それはそれでいい様な気もするけれど、自由が狭まってしまうのは反対だった。だから、事実を口にするのは儚と二人きりの、この瞬間だけだ。
「来週の渋谷で面白いモン見せてあげる。儚の魂が揺らぐくらいのね」
「それはそれは。楽しみにしていますよ」
嘘ばっかり。そう言おうとして真人は思い留まり、「ハハッ」とからりと笑った。
楽しみにしている……というのは本当ではない。けれど、嘘という訳でもないのだ。何も期待してはいないし、何を楽しむでもないのだから。ハッキリとした真実はそこには存在しない。誰に対しても、何においても。