──10月31日。
 ハロウィン当日。渋谷はたくさんの人で溢れ返っていた。各々が悪魔やゾンビ、ドラキュラなどのコスプレをし、街を闊歩する。二日程前に軽トラックが横転させられるという事件が起きていたが、その事を憂慮する人間はどこにもいなかった。
 ただひたすらに騒ぎ立てられる楽しいイベントであると、誰もが信じ込んでいた。そうして能天気にはしゃいでいたものだから、這い寄る脅威が首に手をかけたことにさえ、気がつかなかったのだ。

 19時。渋谷に帳が下りる。非術師たちはものの見事に閉じ込められた。
 さらに追い打ちをかけるように、多くの人々が渋谷駅へ吸い込まれる。駅構内を隙間なく埋め尽くしながら、身動きが取れずにいた。『五条悟』なる人物がやって来れば解放されるらしい。──そんな信憑性のない情報をどこかで又聞きして、「五条悟なんで来ないの」と口にする。五条悟が何者かも知らず、何故閉じ込められているのかも分からず、多くの人間達が途方に暮れていた。


(スマホ繋がんない……けーたどこ行っちゃったの……?)

 渋谷駅構内にある吹き抜けの壁まで追いやられた一人の女が、不安げに周囲を見渡していた。共にハロウィンイベントを楽しむ為に渋谷へやって来ていた恋人とは、駅に吸い込まれた際にはぐれてしまった。精一杯首を伸ばし、人混みに視線を走らせるものの、彼氏と思しき人は見つからない。電話をかけてみようにも、何故か電波が繋がらなくなっていた。これから渋谷の夜はさらに深いものとなり、現状は異常事態で間違いない。いつか使うかもしれない緊急連絡手段として、スマートフォンの電池を無為に減らしたくはなかった。
 不安に心が押し潰されそうになる中で、先月の誕生日に彼氏がプレゼントをしてくれた腕時計を握り込む。もうすぐ21時だ。渋谷から出られず、またスマートフォンがまともに機能しなくなって、二時間が経とうとしていた。

 吹き抜けの下──普段は上階から線路とホームを覗くことができるが、ざわざわと異音がしたかと思えば、太い木の根が幾重にも絡まって穴を塞ぐ。何故、こんな場所で植物が、しかも生き物のように蠢いて生えるのか。植物の生長をタイムラプスで撮影した動画を観た事はあったが、今の現象は画面越しのものではない。

「さて」

 不意に、女のすぐ傍で声がした。この雑踏の中でも耳に入ってくる、落ち着きはらったせせらぎの様な声。見上げると、真っ赤な髪が目を引く、芸術品の如き美しさを携えた人物がいた。器用にも吹き抜けをぐるりと囲むガラス製の柵に腰かけて、機嫌良さげに微笑む。こんな状況であるというのに、女はその時ばかりは彼氏のことさえ忘れて、見惚れていた。

「人間が何故“神”などという存在を生み出すか、分かりますか?」

 そのヒトは、誰かに問いかけた。女も、女と同じく見惚れている他の人間も、自分に声をかけられているという傲慢だけは抱かずに、続きの言葉を待ち侘びる。

「人間はね。生まれた時から己が罪深い存在であると、無意識の内に理解している。だから赦しを乞う。けれど、人間では人間に赦しを与える事はできない、同じ罪人ですからね」

 だから、神という虚像を生み出して、赦されようとしているんだよ。

 母が子に寝物語を話し聞かせるような口調で、ヒトは語る。その内容が世界の真実であるか否かなど、誰も確かめはしない。あぁ、きっと、このヒトが言うのならそうなんだ。……進化の過程で折角手に入れた高度な思考能力を放棄し、愚直に受け止めるのみだ。

「……ですが、まあ。人間に神など空想する必要はないのですよ。赦免など不要です。……あぁ、勘違いをしないで? これはぼくが呪霊だから、人間の事が嫌いだから、言っている訳ではありません。人間にとっての正しさの話です」

 女は一心不乱に耳を傾ける。……何だか木の根で塞がれた階下が騒がしいような気がした。美しいヒトの声が聞こえなくなってしまっては嫌だから、早く静かになって欲しい。そんなことを思う。

「例えば、平等である事。皆が同じだけ恵まれる……それは人間にとって正しい事でしょう? けれど同時に、自分だけがより得をする、不平等を望んでいる。自分さえ幸せであれば、極論その他全員が不幸でもきっと良い訳ですけれど。ふふ……そうはいきませんよね。人間は皆、他の人間のことが大好きなんだから」

 罪を罪と断ずることの出来る人間は、正義だ。けれど人間社会における正義とは、その他大勢である。

「たった一人の正しさよりも、百人の悪行を是とする。全員が抱える罪など、皆で見ないフリをすれば事足りる。指摘する様な賢者愚者こそ、断罪してしまえばいいのです。そういう弱いものいじめ、一番好きでしょう?」

 ──儚に目を奪われている人間達の足下を、黒い泥が滑る様に広がっていく。さらに階下では、木の根の隙間から泥が降り注いでいた。それに触れた人間は漏れなく全員、一人の人間を敵視する。年齢、性別、学歴、嗜好……あらゆるものが異なっていながら、各々が確固たる個性を持ちながら、ひとつの目的に向かって邁進する。
 奇跡の様な光景であった。嘘偽りなどなく、冗談でもなく、空想でもない。そこに在るのは真実だ。一寸の澱みもなく、綻びもなく、人々は今、心をひとつにしている。

 この状況を作り上げた元凶を。楽しいはずのハロウィンを台無しにした存在を。助けてくれない無能を。

「大丈夫。みんなでかかれば、たった独りの五条悟最強なんて怖くないよ」


 『五条悟を殺せ』