開門

 吹き抜けを塞いだ木の根、その隙間から滴る泥に濡れた人間の気が触れる。恐れ知らずとなった人間が自身に立ち向かい、そして死んでいく様を見て、五条は舌を打つ。
 七海と虎杖が当たった里桜高校での一件。ツギハギ顔の呪霊の他にいたもう一人についての証言が食い違っていた。七海は「呪詛師がいた」と言い、虎杖は「呪霊だったと思う」という曖昧な答えをした。
 七海ほどの呪術師が、呪霊と人間を判別できないなどというのはあり得ない。虎杖の言葉も考慮した可能性としては、人間と呪霊の混ざり物──所謂、呪胎九相図のような──であるか、呪霊が高度な擬態能力を会得しているか。五条の周りに溢れ返る錯乱人間の存在からして、件の呪霊ないし呪詛師が上階にいるのは明白だ。木に塞がれた安全圏から、人間を利用して五条を殺そうとしている。つくづく癪に障る存在だ。

「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「死ね」
「お前なんか」
「死ね」
「どうして助けてくれないの」
「死ね」
「殺せ! 殺せ!」
五条悟オマエさえいなければ!!」

 過剰に煽られた人間の悪心が、ただひたすらに五条にだけ向けられる。口々に発せられる言葉と、憎悪に血走った目に全身を射抜かれても尚、五条にはそれを「呪われているせいだ」と割り切れるだけの冷徹さがあった。とはいえ、決して気分が良いものではない。非術師たちの隙間を縫い、あるいは非術師ごと、五条に攻撃をしかけてくる呪霊達へ向ける拳に、必要以上の力が籠る。
 所詮、無力な非術師だ。いくら呪いで悪心を肥大化させられたとて、五条に傷一つ付けることも叶わない。問題なのは、大勢が五条に集るものだから、呪霊に集中し切れないことだ。それこそが狙いなのだというのは、勿論分かっているけれど。

「人間のキショい所、1つ教えてやるよ」

 先程、地下鉄に乗って大量の改造人間と共に表れたツギハギ顔の呪霊──真人が、人差し指を上げて言う。

「いーっぱいいる所」

 その言葉を合図にしたかの様に、吹き抜けを塞いでいた木が崩れ落ち、上階から更なる人間が降って来る。泥に浸されて落ちて来た人間達は、漏れなく狂っていた。五条を『五条悟』であると認識するや否や、目の色を変えて牙を向く。改造人間と、呪霊一派の攻撃に巻き込まれながら、五条の息の根を止めようと手を伸ばす。そのほとんどが後から溢れる人間に背を押され、五条の周囲に展開している無限とに挟まれて圧死した。
 骨が砕け、皮膚が裂け、腑が零れ、血と床に広がる泥とが混じり合う。「オマエのせいで」「オマエがいるから」と、死の間際に五条を責めた人間ばかりがいた。

 ──吹き抜けから階下を見る儚は、落胆した様に溜息をついた。

「これだけ人間が集まっていれば、一人くらいは例外がいるのではと思ったんだけれど」

 泥に触れた人間は例外なく狂い、五条悟には爪先すら届かない。「さすが最強と謳われるだけの事はありますね」自分とは真逆であると、儚は拍手すら贈りたい気分だ。きっと五条悟が封印される前に階下に行こうものなら、その瞬間消し飛んでしまうだろうと思う。

 儚が吐き出す泥は、儚を形作る人間の怨嗟をよくよく煮詰めたものだ。濃縮した悪意に触れることで善性はいとも簡単に消え失せ、ただ自分が気に入らない他の人間を呪うだけの暴徒と化す。実に醜悪な光景であったが、何よりも、儚は別段無から有を生み出す訳ではないという点に、“呪い”の根源を見出す。

「ふふ、呪霊討伐など放っておいて、戦争などした方が平穏に過ごせると思いますがね……」

 少なくとも呪術師は。
 儚は「きみ達はどうでしょう?」と背後に立つ少女らに振り返る。腹の底で渦巻く感情を押し殺しているのか、淀んでいる割りに強い意志の籠った目をしていた。少女らは儚の問いには答えず、だんまりを決め込んでいる。

「事が上手く運ぶといいですね」

 儚が少女らに微笑みかけ、階下に顔を戻したその時だ。ほんの一瞬、一秒にも満たない刹那。領域が展開され、その場にいた五条悟を除いた全員が棒立ちになる。瞬きの内に次々と改造人間が屠られていくその光景に、儚は「おや、」と驚いた。
 領域展開をすれば、まず間違いなく非術師は死ぬ。だから生者と死者のどちらもが増え続ける状況を作り出すことで、五条悟の領域展開を封じる。──そういう作戦だったはずだ。
 なるほど、最強。なるほど、規格外。追い詰められても尚、その強さは揺らがない。否、結局のところ追い詰められてすらいないのだろう。呪霊と非術師如きにそれを行うなど不可能であったという訳だ。

 しかし、元より呪霊一派は『五条悟の殺害』などという無理難題を、目標に設定していない。

「獄門疆、開門」

 改造人間を鏖殺した五条悟の足下に転がされた箱が、中身を露わにする。四隅を固定する様に広げられた肉の中心に鎮座する瞳が、いっそ一途なまでに五条だけを見つめていた。
 間違いなく、良くない物だ。そう警鐘を鳴らした優秀な本能に従い、ほろりほろりと血涙を流すそれから距離を取ろうとした時、五条はとある声を聴く。

「や、悟。久しいね」

 振り返ったその先。気安く右手を挙げる袈裟姿の男。
 昨年の12月24日、日没と同時に新宿と京都で行われた、通称・百鬼夜行。その首謀者にして史上最悪の呪詛師──五条悟の親友である夏油傑が、そこには立っていた。

 如何な最強であろうと、条件さえ満たせば獄門疆は封印することが可能だ。
 所有者が対象の傍で「開門」と唱える。獄門疆の瞳が対象を捉えた後、半径約四メートル以内に一分間対象を留める。そして、門を閉じる。

 一分という時間は、五条悟をその場に留め続けるという行動にでなければならない場合、途方もなく長い。策を講じ、人命も呪いも全てを吐き出したところで叶わないだろう。一パーセントの余地すらなく、不可能である。
 だが獄門疆が条件として提示する一分は、現実に流れる時間ではない。五条悟の脳内で一分が経過すれば、それでよかった。

 親友、夏油傑を前に、五条の脳内で流れた時間はおよそ三年。十数年前のかけがえのない記憶。青い春。
 自らの手で殺した唯一の親友。もう二度と会うことのできない存在。五条悟を最強たらしめる要素のひとつである“六眼”が、再度現れた男を『夏油傑』本人であると断じてしまったが為に。

 ──五条を見つめる目玉は空気に解け、歪な肉が五条の身体から生える。
 嵌められたのだと確信を得た時にはもう遅い。身体に力は入らず、呪力を練ることもできない。

 五条には分かっていた。いくら六眼が男を『夏油傑』であると伝えようと、確かに夏油と同じ時間、同じ感情を共有した五条には、偽物であることくらい分かっていたのだ。“実はたった一人の親友は死んでおらず、生きて再び五条の前に現れた”……だなんて愚かな希望すら、抱くはずもない。

「誰だよ、オマエ」
「キッショ。なんで分かるんだよ」

 睨みつけ問うと、親友と同じ顔で笑いながら、ソレは中身を曝け出した。不気味に口が付いた脳ミソを見せびらかす。
 五条を封印する為に一番適した“状況”と、『夏油傑』が有する生得術式・呪霊操術。それらが欲しかったのだと、何者をも嘲る様な笑みで、ソレは話してみせた。

「楽しそうですね」

 その時、夏油の背後から赤髪の呪霊が現れる。どこまでも人に近い見た目をした──ついでに言うのであれば、非常に整った顔立ちの──呪霊だ。以前聞いた虎杖の証言と一致していた。

 だが、術師ならば人間と見紛う事はないと五条は確信する。であれば、先程の推測は後者……“非常に高度な擬態能力を有している”というのが正しかったと言える。七海も虎杖も、呪詛師について話す時に限って「顔は思い出せない」などと言っていたのも、術式か何かなのだろう。今は人に紛れることなく、呪いとして大手を振って歩いているようだった。

 強気にも、呪いは夏油より一歩前に出て、五条に話しかける。

「その眼で睨まれただけで祓われてしまうのでは……なんて思っていましたが、大丈夫そうで安心しました」
「雑魚がここぞとばかりにイキりやがって」

 五条が吐き捨てると、儚はクスクスと笑った。「最後の会話はもういいかい」と夏油が五条を見下ろしながら言う。

「おやすみ、五条悟。新しい世界でまた会おう」
「僕はな。オマエはそろそろ起きろよ」

 挑発的に言う五条は、一体誰に言葉を向けているのか。夏油の右腕が微かな反応を示した事に気づいた者はいない。

「いつまでいい様にされてんだ、傑」

 その瞬間、夏油の右腕があろうことか自分自身の首を強く絞めた。脳の指令に反した行動に、夏油は「初めてだよ、こんなの」と大口を開けて笑う。
 五条の領域展開を受け、今しがた意識を取り戻した真人が、足取り軽く夏油と儚に合流する。

「お疲れー先生。夏油は何してんの?」
「あぁ、真人。見てくれ」

 真人からすれば、夏油自身が夏油の首を力一杯絞めているという奇妙な光景だ。「そんな趣味あった?」と首を傾げる。

「君は魂は肉体の先に在ると述べたが、やはり肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ」

 そうでなければ、肉体が反抗する現象も、脳を入れ替えた際に元の持ち主が得た記憶が流れ込んでくることも説明がつかない。……そう言う夏油に、真人は「術式の世界が違うんじゃない?」と返した。
 真人の考えに「素敵だ」と感想を述べた夏油は、未だ攻撃的な意志を持つ右腕を押さえ込みながら、儚に問う。

「肉体の一部に感情の残滓があったりする?」
「いいえ」

 儚が夏油の右腕に触れる。
 結局は、切り離されたトカゲの尾が、しばらく動いているようなものだったのだろう。不自然に力が籠っていた右腕は、脳の支配下に戻る。珍しいものを見たとでも言いたげに、儚は笑みを零した。

「ちゃんと死んでますよ」
「おい、ブス。馴れ馴れしくそいつに触んな」

 不機嫌を隠すことなく、五条が唸るように言う。儚は不思議そうな顔で夏油と真人に顔を向けた後、信じ難いといった様子で「ぼくに言ってます?」と目を丸くした。五条は顔を顰め、べえっと舌を出す。

「自覚ねぇのかよキッショ。ナルシストにも程があるだろ」
「変わり者ですね。もしかして、自分は傑と本音で関われていた……とまで思っていたりして。ふふ、腐っているのでしょうね、その両眼」
「────殺すぞ」

 一寸の淀みも無い殺意。何も出来ない状態であるという事を理解していても、夏油と真人は思わず足に力を込める。そんな中でも儚は変わらず微笑み、佇んで、「怒らないで」と諭した。

「理解という傲慢も、無理解という現実も、当然のことですよ。人間なんだから」
「儚、あまり煽るものじゃないよ。君、弱いんだから」

 五条は、今にも儚を視線だけで射殺しそうな勢いだ。夏油は儚を制し、微かに足を後ろに下げた。

「あぁ、これは失礼。そろそろ封印しては?」
「……そうだね。もう少し眺めていてもいいが、何かあっても嫌だし」

 ──「閉門」
 夏油が唱えると、獄門疆は元の立方体へ戻る。

 かくして呪術界最強は封印された。