大好きだから

 五条悟を封印し終えた頃、少し遅れて漏瑚と脹相が意識を取り戻す。ぼんやりした顔の二人が合流すると、夏油は上機嫌に「全員起きたね」と今後の方針を話そうとし──獄門疆を手放した。
 夏油の手から落ちた獄門疆が床にめり込む。到底人間の膂力では持ち上げることの叶わない重量となっているのは、偏に中に封印されたのが“五条悟”であるからだった。獄門疆は確かに五条を封印することには成功しているが、中に収められた人間の情報を処理しきれないでいた。

 暫くは動かせない──そう判断を下す夏油らを観測する存在があった。

 ほんの微かな気配を察知し、真人は天井の通気口に貼り付いた小さな端末を砕く。それは先日真人が殺した呪術高専京都校の生徒、与幸吉が、自身の死後に呪術師側をサポートする為に遺しておいた物だった。
 五条悟が封印された事実は当然呪術師側に判明し、総力を挙げて五条の奪還を目論むだろうというのは想像に難くなかった。

「私はここに残るけど、皆はどうする?」

 夏油が問う。最初に口を開いたのは脹相だ。

「俺は弟の仇、虎杖悠仁と釘崎野薔薇を殺す。その後、高専に保管されている他の弟達を回収する」
「残りの九相図はもう死んでしまっているでしょうに」
「釘崎とやらは知らんが、虎杖は駄目だ。宿儺にする」
「関係ない」

 儚と漏瑚の言葉、その両方に即答する脹相。漏瑚は青筋を浮かべて脹相を睨み上げ、脹相もまたそれに受けて立つように漏瑚を睨みつける。一触即発といった雰囲気の二人の間に「漏瑚、落ち着いて」と真人が宥めに入る。
 そしてあっけらかんと言ってのけた。

「やっぱ俺も虎杖殺したいかな」

 里桜高校で邂逅してから、ずっと真人の中に燻り続けていた欲求だ。呪いが人として立つ世を作るにあたり、呪いの王たる両面宿儺の存在は必須と言える。だからこそ、その宿儺の器である虎杖は殺さずにいようと、真人とて自制していたのだが、呪術界最強と謳われる五条と実際に対峙したことで、考えが変わったのだ。
 術師と呪霊の力量を鑑みて、確信を持って言う。

「大丈夫。宿儺なんていなくたって、俺達なら勝てるさ」

 漏瑚の宿儺復活を目論む意志、真人の虎杖を殺すという欲求。どちらも本気であった。
 虎杖を殺せば、宿儺の復活を阻むこととなる。けれど真人は仲間である漏瑚と争うつもりはないと言い、ゲームと称する提案をした。

「俺が先に虎杖と遭遇エンカウントしたら奴を殺す。漏瑚が先なら、指を差し出して宿儺に力を戻せばいい」

 真人の提案に、脹相も『虎杖を殺す側』として賛同する。夏油は獄門疆の見張りをする為にこの場に残ると言い、呪霊一派は実質二つのグループに分かれる事となった。

「儚は俺と来てよ」

 じっと左右で異なる色彩を持つ眼で儚を見据え、腕を引く真人。儚はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべながら、やんわりと自身の腕を掴む真人の手を外した。

「先程の様に場が整っていなければ、ぼくはただの足手纏いですよ」
「大丈夫だって、上手いことやれるだろ?」
「ふふ、せっかくのお誘いだけど、遠慮しておくよ」

 つまらなそうに口を尖らせる真人。「ちぇっ」とわざとらしい舌打ちをした後、ゲームになる訳がないだなんだと小言を垂れる漏瑚を無視して上階へ向かう。脹相と陀艮もそれに続き、「待たんか!!」と怒鳴り声を上げて漏瑚も走り去った。
 その背を見送った夏油は「呪霊の方が君達より利口だな」と呟く。

 棒立ちのまま気絶する人間達の間から、夏油を射殺さんばかりに睨みつける少女が二人。

「返せ」





 ──大好き。

 大好きな人だった。
 座敷牢から助け出してくれたあの日から。大丈夫だよと安心させてくれた瞬間から。きっと目の前に現れてくれた時から。

 少女達……美々子と菜々子にとって、夏油傑とは救世主に等しい存在だ。同時に父親のようでもあり、先生のようでもある。狭くて暗い牢獄から二人を連れ出し、広い世界を見せてくれた。理想を抱かせてくれた。血よりも固い絆で結ばれた家族の一人だった。

 ──大好き。

 彼の描く夢に準じた。彼の抱く理想を歩んだ。彼の掲げる信念を倣った。
 たとえそれが、大衆から認められないものだったのだとしても。狭いコミュニティでしか成立しない、迫害されるべきものだったのだとしても。少女らにとっては、夏油こそが正義であったのだ。今の世が間違っていて、それを矯正する立役者こそが夏油であったのだ。少なくとも少女らと、夏油の下へ集った“家族”にとっては、夏油が為そうとしていた大儀は夢物語でもなんでもなかった。理想郷であるとさえ、信じていたのだ。

 ──大好き。

 だからこそ。それ故に。
 美々子と菜々子は、認める訳にはいかなかった。『夏油傑』を名乗る偽物を。遺体を弄ぶ醜い呪いを。

 彼女達とて、夏油を直接死に追いやった五条を許してはいない。大切な人を奪った仇であると認識している。それでも復讐に走らないのは、五条が夏油の唯一の親友だからだ。昔喧嘩別れしたのだと、五条を語る夏油の声色は優しくて、美々子と菜々子の知らない時間があったことを伺わせる。確かな信頼があった。確かな友情があった。思想は異なり決別したけれど、二人は最期の瞬間まで親友であったのだ。
 夏油の物語に終止符を打ったのが五条であったから、それでいいと思うことが出来た。きっと夏油自身も納得できただろうと、彼女らは夏油を想い、夏油を知っていたからこそ、そう信じられた。世界にとって悪を為そうとしていた救世主を、親友が止める。きっと、それは、美しい終わりの形だった。

 ──大好き。

 夏油の遺体を利用し、悪逆を為す。彼の様な崇高な大儀もなく、呪いを撒き散らす。
 許せるはずがないのだ。彼の名と、顔と、声と、体と、力を利用して、好き勝手に生きてみせるそれを。

「……肉体は返ってきませんよ」

 夏油を名乗る中身を知る呪霊がそう言った。
 美々子と菜々子は、夏油の肉体を取り返す為に約束を交わしたはずだった。五条悟の封印を行うにあたって手を貸す代わりに、夏油の肉体を解放しろと。
 ふざけるなと噛みつこうとする二人に、当日の作戦を説明しにやってきていた呪いは、憂う様に言う。

「どうやら“夏油傑”であることに意味があるようなので。……彼を解放するために、きみたちは“縛り”を結ばなければならなかった。口約束では破られて終わる」

 呪いは、“中身”のことを知ってはいても、傾倒している訳ではないらしかった。彼の思惑が上手くいこうがいくまいが、どちらでもいいのだと語る。そして、美々子と菜々子が夏油へと向ける『愛』を褒め称えた。呪いの癖に気持ちが悪いと菜々子が呟けば、呪いは人間の様に苦笑する。

「呪いは人間が持つ感情の澱みから生まれるもの。人間よりも余程、その辺りに関しては分かっているつもりですよ」

 それに、と呪いは続ける。

「きみ達にとっての“夏油傑”……そんな存在が、実はぼくにもいました。父であり、師である、素晴らしい人間が……昔ね」

 感慨深そうに語る呪いを見て、戯言だと切り捨てるのは容易かったが、二人にはどうもそれが出来なかった。呪いであると分かってはいても、あまりにも本心からひとりの人間を敬っているように感じたから。
 今まで見てきたどのような呪いとも違う。理知的で、温厚で、何より美しい。人間のようでいて人間とは異なる違和感に戸惑いながら、少女達は呪いの言葉を聞いていた。

「……ぼくも彼に掛け合ってみましょう。けれど、きみ達は決断せねばなりません」

 決断。即ち、夏油をもう一度殺す事。
 呪いに促されずとも、美々子と菜々子はそうするつもりだった。二人で考えて考えて、悩み抜いた末に出した結論と方法がある。

「それでいいのかい」

 呪いは二人に問うた。

「一度は五条悟親友の手で幕引きを迎えた人間を殺すのが、呪いでもいいのかい。きみ達は」





 夏油と少女達は心を通わせていた。当然のことだ、家族なのだから。
 親友が一度決着をつけたのなら、今度は家族が決着をつけるというのは、ごく自然なことだ。

(夏油様の為に、夏油様の為に)
(私たちが、私たちが)

 偽物が、本物のように振る舞って、少女らに向けていた冷徹な視線を興味なさげに外した。

「消えろ。それとも、この肉体からだに殺して欲しいか?」

 ──大好き。

 瞬間、血飛沫が舞った。
 強靭な顎と牙を持つ魚に似た頭を持った呪霊が、幾人かの人間を齧り取った。身体を丸ごと飲み込まれた人間もいれば、一部分だけ奇妙に欠けた者もいる。そんな攻撃的な呪霊を体内にしまいながら、夏油は唸る様に低い声で「儚」と傍に立つ呪いを睨み上げた。

「唆したな」
「おや、どうして気分を害しているんです?」

 素知らぬ顔で首を傾げる儚は、それが当然の疑問であるかのように問うた。

「私に余計な手間をかけさせないでくれないか」
「両面宿儺を差し向けられるよりはマシだと思いますけれどね」

 儚は血溜まりの中に落ちている、布で包まれた物体を拾い上げる。封印されていても尚、強力な呪力を垂れ流しにするそれは、二十に散らばった宿儺の指の一本だ。興味深そうに眺めた後、懐にしまう。

「きみの機嫌をこれ以上損ねない内に、ぼくも街に出るとしましょう。漏瑚に指を届けてあげないと」
「あぁ、是非そうしてくれ。漏瑚によろしく」

 するりと壁の中に消えていく儚を後目に、夏油は先程自分の首を絞め上げた右手を見た。従順に、脳の指示通りに動いている。何の不自然もない光景ながら、夏油はそれがさも滑稽であるかのように鼻で笑った。

「薄情だな」

 それは確かなる侮辱であったけれど、憤慨する者はもうどこにもいなかった。