悪意、蠕動

 ──どの程度時間が経っただろうかと、儚は壁にはめ込まれている時計を見やる。
 漏瑚を、そして漏瑚自身が探している宿儺の器・虎杖悠仁を探して渋谷を徘徊し始めてから、およそ一時間が経とうとしていた。閑散とした駅構内で佇む儚は、小さく息を吐く。

 それとなく気配を探りながら移動していた儚だったが、人間とはすれ違いもしない。時折、この騒ぎで発生したと思しき呪霊は見かけたが、それ以外は術師の影すらも見ていなかった。虎杖か漏瑚の居場所を聞くだけ聞いて逃げる、という考えもあっただけに、些か思惑から外れたなと肩を落とす。(実は同じ場所を堂々巡り……という訳ではないはずだが)複雑な構造をしている渋谷駅で迷子になる人間は多いが、壁をすり抜けられる儚にはあまり関係ない。

 適当な壁を抜け、また別の場所に姿を現す。

「おや」

 そこには脹相がいた。両足を抱えて蹲り、壁の窪みに大きな身体を収めている。恐らく直前まで戦闘を行っていたのだと分かる程度には傷ついていたが、それにしても様子がおかしい。儚は脹相の前に膝をつくと、小さく震える手に自身の手を重ね、柔らかに問いかける。

「どうしました、脹相? あぁ、こんなに冷え切ってしまって」

 脹相からの返事はなく、また見開かれた目が儚を映すこともない。ただ、不安げに揺れる瞳や見えない何かに怯え苦しんでいるかの様な表情は、まるで親とはぐれた幼子だ。
 父ならどうするだろう、と儚は、死んでから一年ほどで顔も忘れた神父を思い浮かべる。あの人間ならばきっと、脹相の隣に腰を下ろしでもして落ち着くのを待つのだろう。そして静かな声で聖書の読み聞かせをし、何があったか話し始めたところで、真剣な顔をして聴き入る。……名前は何だったかな、などと考えながら、儚は立ち上がった。

 存外、神父のやりそうな事は鮮明に思い浮かべることができたが、それを儚がしてやるかはまた別の話だ。床を見れば、脹相の辿って来た道筋を示すかのように水滴が落ちている。一体どこで戦えば全身水浸しになるのだろう。儚が少し首を傾げてその場を離れようとすると、引き留めるかのように脹相が服の裾を掴む。

「…………た、」
「脹相?」
「虎杖悠仁はいつ生まれた。俺の、弟なのか。どうなんだ」

 儚は目を丸くした。脹相の言っている意味が分からなかったからだ。
 何があれば弟の仇敵であることを理由に、必ず殺すと息巻いていた相手を“弟”などと思うのだろうか。

 脹相が遠隔で弟たちの死を感じ取れるのは知っている。壊相と血塗が死んだ時、どういう仕組みかと尋ねれば「術式の影響で変化が分かる」と語っていた。同じ胎から生まれた弟の危機を悟れる兄とは素晴らしいと、儚は称賛したものだ。
 それで、今回は虎杖の危機を感じ取ったというのだろうか。己の手で殺したか──殺しかけたその瞬間に。

「さあ。ぼくは知らないな。六番か七番目が生まれた辺りで距離を置いたものですから」

 宿儺の器であるという程度にしか、儚は虎杖のことを認識していない。脹相と同じ胎から産まれたのか、同じ血が流れているのかは知らないが、どちらもきっと不可能ではないと考える。同時に、なるほどと納得もした。
 偶然、両面宿儺に適応した器が誕生するなどおかしな話だ。確証は持てていなかったが、薄々感じていた作為的な流れは気のせいではなかった。

「真実はきみの内にあるでしょう。真偽を確かめたいのなら、もう一人の父に尋ねてみるのが早いと思いますよ」
「…………」

 脹相は力なく手を放し、膝に顔を埋める。儚は今度こそその場を離れた。

 微かに血の混じった水の跡を辿れば、トイレに行き着いた。あちこちが破壊され、激しい戦闘があったことが窺える。儚は壁に凭れて項垂れる人間を前に、少し離れたところで足を止めた。

(……意識はないのか)

 様子を窺いながら歩み寄る。儚が目の前に立っても、人間──虎杖悠仁は何の反応もしなかった。

「さて……」

 儚個人としてはこのまま虎杖が野垂れ死んでも一向に構わない訳だが、呪霊側にそれを望まない者がいることも事実だ。
 虎杖を殺したがっている真人と、宿儺の復活を望む漏瑚。両者の意思を組むとするならば……と、儚は懐から宿儺の指を取り出した。封印を解き、気絶している虎杖の口にそれを押し込む。一瞬でも発せられた強い呪力を察した誰かしらが、ここに駆け付けるだろうと踏んだ。

「いずれ己の身体になるかもしれないのに、救いはしないのですね」

 虎杖の顔に浮かんだ模様を眺め、儚はそう声をかける。宿儺からの返答は特になかったが、代わりに「儚!!」という鋭い呼び声があった。

「漏瑚、ちょうど良いところに」
「何故貴様が宿儺の指を……いや! そんなことより、何本喰わせた!?」
「一本ですよ。偶然拾った物ですから」

 勝手な事を、と漏瑚の内に小さな怒りの火が灯ったが、儚を怒鳴ったところで事態は変わらない。そんな事に時間を割くよりも、今この状況を利用しなければと考えた。懐から計十本の指を取り出し、その全てを虎杖に飲み込ませる。
 夏油は、虎杖がたとえ宿儺の指二十本全てを取り込んだとしても、宿儺に主導権を渡すことはないと予測していた。だが同時に断言する。それは一日一本、二十日間かけて取り込んだ場合の話であり、一度に十本もの指を取り込めば、肉体の主導権は一時的にではあるものの、宿儺に移ると。

「何故、虎杖悠仁に指を喰わせた。コイツが目覚めれば、やられるのは貴様の方だぞ」
「ぼくもきみを探していたのですけどね。誰も見つけられず……指の封印を解けば、勘の良いきみがすぐさまやって来るだろうと思いまして」

 親愛の情を感じさせる笑みに、漏瑚は溜息をつく。こと宿儺の復活に関してはもう少し慎重に行いたかったが、既に過ぎた事だ。
 だがまあ、一応は小言のひとつでも言ってやろうと漏瑚が口を開きかけた時だ。

「1秒やる。どけ」

 漏瑚は儚を引き摺る様にして距離を取った。
 ただそこに存在しているだけで周囲を圧倒する邪悪。肌で感じさせられる格の違いに、漏瑚は脂汗を滲ませる。目を覚ました宿儺が立ち上がり、前髪を後ろに撫でつけながら二人に目を向ける。

「頭が高いな」

 ひと言、宿儺が告げる。漏瑚の身体は意識と反し、片膝をついていた。覇者への敬意、畏怖を示すかの如く。
 不自然に時間が引き延ばされている様な気がした。漏瑚の単眼は真っ直ぐ宿儺のみを捉えていたはずだが、視界の端にある儚の足も認識できていた。漏瑚とは違い、膝をついていない。立ったままだ。

「儚……」

 漏瑚が言葉を発するより早く、儚の身体は真っ二つになり、漏瑚の頭頂部も削れていた。頭から溢れる血液に息を呑む。

「救いようがない愚鈍ぶりだな。片膝ですら足らんというのに、それすらないとは。実るほどなんとやらだ。余程頭が軽いとみえる」
「儚……ッ!」
「……ん?」

 物言わぬ骸となった儚の身体、その輪郭が解けて泥と化す。血痕の代わりとでも言うように床に広がったそれを踏みつけにして、壁の中から儚は再度姿を現した。

「こんばんは、宿儺。良い夜ですね」
「……なるほど、張りぼてか。顔を見るのは二度目だな、呪霊」
「あぁ。こうしてお話するのは初めてですけれど、」

 ね。言い切る前に、儚の両足は切られていた。膝をつき、緩慢な動作で切り口から流れ出る血液を見て、宿儺の方へ顔を戻す。理不尽な暴虐を働いた割に、どうやら宿儺は機嫌が良いようだった。「あの時の余興は悪くなかった」ケヒッという独特な笑い声を上げ、宿儺は言う。
 儚を見下しながら歩み寄る宿儺。身を屈め、顎を掴んで持ち上げると、覗き込むようにして顔をまじまじと見つめた。隣でその様子を見る漏瑚は、いつ儚が殺されるかと気が気ではない。かと言って、下手に口を挟むことができないのが現状だった。

 儚と宿儺、両者が口角を上げる。その瞬間、儚の顔面に切れ込みが入った。異様に整った造形に深々と刻まれた傷、飛び散る鮮血が悲鳴を肩代わりしている様だ。

「満足しました?」
「あぁ、良し。気に入らんが気に入った。先の事は不問としてやろう」
「光栄な事です」

 頭頂部を切られた漏瑚よりも幾分遅く、儚の傷が再生していく。少しして元の形を取り戻すと、儚本人よりも漏瑚は安堵した。「で?」と宿儺が問う。

「何の用だ、呪霊共」
「用は…………、ない!!」
「何?」

 宿儺は怪訝そうな顔をし、目線を一度儚へ向ける。儚はただ口許で綺麗な弧を描くのみで、求めるものは得られない。漏瑚は毅然と、けれども緊張した硬い声色で言う。

「我々の目的は宿儺、貴様の完全復活だ」

 指を同時に十本取り込むなどという特殊な状況でもない限り、肉体の主導権は常に虎杖にある。
 先の件──真人が無為転変で魂の形を変えた吉野順平をけしかけた時、虎杖は確かに「自分はどうなってもいいから順平を助けてくれ」と宿儺に懇願した。それは肉体を求める宿儺にとっては願ってもない申し出であったはずだが、しかし宿儺は棄却した。虎杖の心を踏み躙る為というのもあるだろうが、そもそも無為転変≠ノよる肉体の変貌は、反転術式でどうにかできるものではないのだ。宿儺が順平を治せない以上、“縛り”は成立しない。
 したくてもできなかった、と漏瑚は考えていたのだ。

 故に、今この瞬間を好機と見て言う。「永劫、肉体の主導権を得る為に“縛り”を作れ」と。

「必要ない」

 ……しかし、宿儺はバッサリと切り捨てた。

「俺には俺の計画がある。だがそうか……ククッ、必死なのだな。呪霊オマエらも」

 挑発的に、宿儺は笑む。

「指の礼だ、かかって来い。俺に一撃でも入れられたら、呪霊オマエらの下についてやる。手始めに、渋谷の人間を皆殺しにしてやろう。一人を除いてな」
「…………。二言はないな」