閉幕
儚は逃げた。逃げたし、逃がされた。
当然だろう。三級、ともすれば四級術師の攻撃ですら、儚には致命傷になり得るのだから。宿儺と漏瑚の戦闘に巻き込まれでもしたら、瞬きする間もなくかき消える。元々戦闘に参加するつもりなどなく、また宿儺にも漏瑚にも頭数として捉えられていなかった。
宿儺の指を漏瑚に届けるという用事を終え、地上の戦闘に巻き込まれないように地下をふらふらと歩く。やりたい事もなければやる事もないので、目についたベンチに腰掛け、さながら人間が眠りにつく時のように深く呼吸をした。
こうして、肌に触れるヒリつく感情たちを感じているだけで、百年経っていたりするものだ。
(……まあ、いいか。真人のところへは行かなくても)
──しばらくすると、辺りは静けさに包まれた。
儚は立ち上がり、外へと向かう。手頃なビルの屋上から渋谷を見渡すと、お祭り騒ぎがあったとは思えない様相を呈していた。
無惨に崩れた建物はもちろん、何よりも目につくのは巨大なクレーターだ。一体誰が、どんな術式を用いれば、地形ごと変えてしまえるのだろうか。何者からも隠れるように、路地裏にするりと呪霊が入っていくのを偶然見かけた。10月31日に発生した呪霊か、それとも……と考えたところで、思い当たる。
(傑が取り込んでいた呪霊かな)
きっと、漏瑚は宿儺に敗れ、真人も夏油に取り込まれたのだろうと儚は思う。真人に関しては元より「一緒に行動していたら私の方に誘導してくれ」と、夏油が儚に対して保険をかけていた程だ。渋谷で起こした五条封印の次の計画に際し、必要なピースだった。
(真人、漏瑚と死んだのなら……えーと、残っているのは花御と陀艮、脹相……それから呪詛師がいくらか。まぁ、漏瑚がいないのなら花御と陀艮もどこかで死んだかな)
ひと足先に戦線離脱していた脹相は生きていてもおかしくはないが、正気であるとは少し言い難い様子を思い出し、まあ死んだだろうと特に惜しむこともなく考える。
呪霊一派の完全敗北──という訳でもないが、真に望んだ結果は得られなかった。百年後の荒野に立っているのが自分でなくとも構わない。呪霊たちはそう言って命を賭し、祓われ、利用された。結局のところ、悪感情を煮詰めた澱みで象ったモノよりも、澱みを生み出し続ける人間の方が余程醜悪で濁っていて、一枚か二枚、上手だったということだろう。
全く持って救い難い、救われない生き物だと儚は人間をせせら嗤う。呪いを祓うより先に、呪いを生み出す程歪んでいる在り方を正すべきだろうに。それに気づけない程鈍感なのか、気づいていても何もできない程無力なのか、すべて承知の上で呪いに当たり散らす程厚顔なのか。
「さて……ぼくはこれからどうしようかな。傑には置いて行かれてしまったことだし」
ハァ、と頬に手を当て、悩ましげな溜息をつく儚。
その後ろから、巨大な手が現れる。励ます様に儚の肩へ手を置いたかと思えば、いとも簡単に屋上から突き落とした。「……え?」これにはさすがの儚も心底驚き、遠ざかる屋上の縁に立つ異形を、双貌に焼き付けるようにして仰いだ。
(呪霊か? 何か、気配が……)
儚は焦ったり、慌てたりはしなかった。壁を抜けられるのだ、人間とは違って、地上に叩きつけられて死ぬということはない。受け身を取れる程の身体能力がなくても問題はなかった。
「ありがとう、リカちゃん」
──仮に着地を成功させなければ死ぬのだとしても、やはり問題はなかった。地面に髪の先が付くよりも先に、儚は死ぬからだ。
◇
記憶とは薄れるものだ。ましてや、強烈に印象に残ったとしても、心さえ動かすことのない儚では、ただ一人の人間の事でさえ、永劫留めておくというのは不可能だった。
これは、走馬灯だ。
儚は白い服を着た呪術師の刀であっけなく祓われる。儚は弱い割に、“死”というものに直面したのはその瞬間が初めてだった。あぁ、なるほど。この少年とさっきの呪いは愛に生きているのだなとか、妙に達観しながら納得し、完璧な表情で「ははっ」と笑って、死ぬ。
屋上から儚を突き落とした呪いは愛の具現であるからして、儚が気配を感じ取れないのも無理はない。渋谷には未だ無数の呪いが渦巻いていて、そんな環境で特定の呪力を感じ取るなんて真似が、儚にできるはずもなかった。情は分かれど、愛は分からない。儚が死ぬのは、それが理由だ。
死にたくない、なんて恐怖も儚にはない。逃げようともしない。ただ雲が流れる様を見るように、死を受け入れた。それでも、一個の確立した生命として、防衛機構のようなものが働いたのだろう。それが、走馬灯だ。
儚が、かつて父として仰ぎ、その後も名前や顔は忘れてしまったけれども、父として呼んでいた事実があったなぁと思ったので父と呼んでいる──神父が殺された時のこと。
神父は実に善い人間だった。紛う事なき善人だ。ただ、世界の仕組みは善人が優遇されているようにはできていなかった。
困っている人がいれば必ず手を差し伸べ、惜しみなく自分の持ちえる全てを与える神父は、その実妬まれていたのだ。神に祈って金品がもらえるのであれば、人間は誰しもそうするだろう。だがそうではない。そうではないのにも関わらず、神父は恵まれている。そうだと捉え、そう見る人間が何人かいた。
神父が与えるばかりでも恵まれているように見え、実際不自由もなかったのは、偏に真心の循環だ。見返りを求めない高潔な精神でもって施し、それに習おうとした者が、また神父に施しを行った。
ただ、それだけの事。
人間が持ち合わせる、他者への愛情。強いて言うのであれば、確かに、神父はそういったものには恵まれていた。
彼に救われたと感謝する人間が多くいる反面、ほんの少しの人間が、神父を妬んでいた。それはただの、自分よりも恵まれた人間がいるのが許せないという、人間が例外なく持ち合わせるのエゴであったけれど。
火のない所に煙は立たないし、地上から仰ぐ星の様に小さな火でも、野原を焼き尽くすことはできる。また、ほとんどの人間は神父を何とも思っていなかったけれど、悪意の伝播というのは、おおよそ光にも勝るのだ。
儚は、当時はちゃんと父と慕っていた気もする人間が死に行く姿を眺めていた。
神父に抱かれていた妬みや嫉みとは全く関係のない、日頃溜め込んでいた鬱憤の捌け口になっている様を見下していた。
「■■■、オマエはとっても憎まれていたんだよ」
走馬灯の中でさえ、神父の名は聞こえなかった。きっとかつての自分が口にした名であったけれど、普通に忘れて、普通に思い出せなかったのだ。
神父は涙を流した。苦しかったからだ。
暴力を受けているからではなく、罵声を浴びているからではなく、憎まれているからではなく。
「主よ、どうか、お救い、ください」
願ったのは、人々の行く末ではなかった。当然、自分のことでもなかった。
──さっくりと切り捨てられ、消滅する寸前に儚は思考した。
次、自分が同じ様な呪いとして生まれることがあったとして、人間を殺すのはやめよう。
本能としてそうしたくなるだろうというのは想像に容易いが、何と言っても存外“死”は大した事がない。
(なんだ、この程度か)