空漠たる珠玉

 とあるパン屋の女性店員は、言葉を失った。

「いらっしゃ、い……ませ……」

 カラリカラリと来客を告げるベルの音に振り向いた先で、あまりにも綺麗な人間を見たからだ。
 微風に揺れる繊細な深紅の髪。精巧な彫像めいた白磁の肌。下ろされた瞼に添えられた長い睫毛。柳の葉を思わせる眉に、真っ直ぐと通った鼻筋、形の良い薄い唇。黒い服に覆われた肢体は細すぎる様にも思えたが、決して欠点にはなり得ない。
 モデル、俳優、芸能人──そういった、女性店員からしてきらびやかな世界にいる存在を咄嗟に思い浮かべた。しかしどうにも、眼前の人物より整った容姿を持つ誰かが、記憶として引き出されることはなかった。

「すみません。オススメをいくらか、教えて下さいませんか?」

 職人が“そう在れ”と創り上げた人形と言われた方がまだ頷ける。そんな存在を前にすっかり見惚れていた女性店員は、言葉を解するどころか声を発した事実さえ、受け入れるのにそれなりの時間を要した。「ハっ、はいっ! はい!?」と、裏返った声で返事をする女性店員に、そのヒトは微笑み返す。女性店員はひゅうっと息を呑み、それから少し深呼吸を繰り返した後に、「失礼しました……」と謝罪をした。

「も、……たっ、いへん、申し訳ッないんですが……もう一度、ご用件を……」
「きみのオススメを教えて下さい」

 深々と頭を下げる女性店員は、異様に激しく心臓が拍動するのを感じていた。耳元で感じる鼓動、最早鼓膜と心臓が入れ替わってしまったのではという馬鹿げたことすら本気で錯覚する。オススメ、オススメ、と己の脳に同じ単語を何度も刻まなければ、まともな思考も叶わなかった。

「えっと、えぇと……」

 女性店員が普段客に向ける快活な笑顔はすっかり鳴りを潜めてしまっている。元来明るい性格で、ほんの少しだけ人よりも度胸があるはずの女性店員だが、その度胸は見る影もない。
 何が起きたかは分からないけれども、確実に何か親切にしてくれたはずの淡泊な元常連客に対し、店の外でお礼を叫んだ頃の行動力は一体どこへ行ってしまったのだろうと、言葉を詰まらせる女性店員は思う。

 普通に、いつも通り、普段と同じ接客をすればいいのだと、必死に言い聞かせる。どこまでも美しいそのヒトは、憤りの気配を滲ませる恐ろしい存在ではない。トントン、と胸を軽く叩き、己を落ち着けることに努める。

「私のおっススメは、まず、こちらの! クロワッサン、です!」
「ではそれを下さい。これに商品を乗せるのでしたか」
「あ、は、はい! そうです! えっと、他にも、メロンパンはお子さんにすっごく人気でっ、バゲットは小麦にこだわっていて、あっ、あとは、カスクートとかマフィンとか、……」

 女性店員はハッと我に返る。緊張のあまり言葉を詰まらせていたはずが、やはり緊張のあまり、ついマシンガントークを行ってしまった。恐る恐る美しいヒトの様子を伺うと、クロワッサンがひとつだけ乗ったトレーを持つそのヒトは、困った様に小首を傾げた。

「パンには疎いもので。今、仰った物をすべて取ってくださいませんか? それぞれ、二つか三つずつお願いします」
「はい……」

 トレーとトングを受け取り、女性店員は手早くパンを選び取る。「こちらで、よろしいでしょうか……?」そう尋ね、そのヒトが満足げに頷いたのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 後は会計を済ませるだけだ、と考えたところで、それは惜しいと思った。
 ヒトは客である。帰ってしまえば、少なくとも今日という日にもう一度その姿を見ることは叶わないだろう。明日、店に来るという保障もない。どころか、今後会えるのかすらも、分からないのだ。
 ただただ美しいヒト。女性店員は緊張しっぱなしであるけれど、ずっとその姿を眺めていたいという欲求は、人間故に湧き上がる。

「支払いはこれで足りますか?」

 真ん中に薄っすらと折り目のついた一万円札が差し出される。手に取りたいのはお金ではなく、そのヒト自身──妙な渇望を抱きつつ、女性店員は笑顔で会計を行う。いくらかのお釣りを返し、パンを薄紙で包んで袋へ入れる。慣れた作業故に手早く終えてしまえることを憂いながら、女性店員は今日一番の勇気を振り絞った。

「また、来てくださいね!」
「はい。機会があれば」

 女性店員の葛藤など知る由もないそのヒトは、来た時と同じ様に気安く扉を開け、ベルの音と共に去っていった。

「……あんなに綺麗な人、いるんだぁ……」

 その背中を見送り、女性店員はほうっと息を吐く。自然と脳に染み入るような、不思議な声色をしていた。見目だけでなく、声までもが美しい、完璧な人だった。女性店員はそんな感想を抱き、夢のような体験をしたなと、目を閉じて余韻に浸った。瞼の裏に浮かぶのは、ただ美しいと認識していた、曖昧な顔のヒトだった。





 女性店員は、呪力を持たない一般人だ。
 呪霊の存在を知ることなく、今までを生きている。

「おや、随分多く買ってきたね。買わされたの?」
「量を指定しなかったのはきみですよ。もう少し具体的に言ってくれないと」
「君が現世に疎いのを失念していたよ、儚」

 夏油は儚からいくつものパンが入った袋を受け取り、薄ら笑いを浮かべながら悪びれる様子もなく言う。
 忙しいんだよね、という理由で使い走りに任命された儚は、小さく溜息を吐いた。

 ──通常呪いを認識することのできない一般人の中には、命の危機に瀕した際のみ、呪いが見えるようになる者がいる。
 パン屋の女性店員は、特級呪霊である儚が店に来たという点において、危機的状況にあったと言える。だが儚はあくまで“お遣い”に来ただけであり、女性店員に対する害意はなかった。女性店員は呪いを認知できるようになるほど、追い詰められてはいない。

 儚は例外だ。
 特級呪霊でありながら、その弱さ故に低級呪霊と同じく壁をすり抜ける事ができる。
 呪力を持たない人間しか認知する事のできない存在でありながら、術式によって人間に擬態できる。特殊な眼か、異常なまでに優れた直感でもなければ、見破ることは困難な精度で。

「彼らはこういうの出来ないだろ。助かるよ、本当に」

 夏油の言う“彼ら”は、真人や花御たちのことだ。姿が見える・見えない以前に、“パンを買ってくる”などというくだらない理由で人間と関わることを厭う。

「で、店は潰れた?」

 どんな店だった? と聞く代わりに、そう問いかける夏油。儚はやや眉を寄せる。

「いいえ」
「あぁ、そう。ホントにお遣いして帰ってきたのか」
「……一応聞いておくけども、何故ぼくが店を潰すと?」
「ははは。呪霊だろ、何言ってんの」

 儚を小馬鹿にしたように笑う夏油は、適当に取り出したメロンパンを手の中で千切る。ひとくちで飲み込める大きさになったところで、口の中に放り込んだ。

「最近、真人と一緒にいるだろう? 少しは影響されるかと思ってね」
「……その為に真人をぼくの下へ寄越したので?」
「別に? 言ってみただけさ。その辺りは期待していないよ」

 己自身に可能性を見出し、術式の実験に明け暮れる真人が、毎日を楽しく過ごしていることを儚は知っている。おおよそ我慢というものは、真人の中に存在していない様だった。

「とはいえ私としては一応、君が大勢を呪うところを見てみたくはあるんだけどね?」
「えぇ、機会があれば」

 儚は術式に用いていた被り物を外し、夏油の前に置いて行く。「片付けなよ」当然、夏油はそう言った。

「忙しいんですよね」