境界謳歌

 三回。ノックをし、鉄製の扉を開ける。
 外は既に夜の帳が下り切った頃合いであったが、壁一枚に隔てられた部屋の中は煌々と太陽が照っている。昼と夜の境界線を跨ぐ儚に、花御が「」と声をかけて迎え入れた。花御が独自に作り上げた言語体系、無意味にも感じる音と同時に、内包する意味が脳に響いてくる。

「えぇ。いつもより、少し長く話し込んでいたもので」

 そう答えながら、儚は誰かしらが──恐らく真人が──持ち込んだビーチチェアに腰を下ろす。沖に浮かぶ陀艮が、儚の帰還を喜ぶように──あるいは、クジラやイルカの息継ぎを真似るように、少しばかり勢いをつけて水を吐き出した。ぶうぶうと鳴く陀艮を、儚は微笑まし気に眺める。
 花御は儚の傍に寄って、砂浜に座り込む。少し言い淀む様子を見せ、「」と切り出した。


「──……と言うと?」


 思わず、儚は黙り込んだ。「……」やや不安そうに花御は儚の表情を窺う。「いいえ」と、儚はまずハッキリと花御の言葉を否定し、深く頷いた。

「なるほど。そう見えるのも、仕方のないことかもしれません」

 花御の懸念も尤もであると、儚は真摯に受け止める。今日たまたま話題に挙げたのが花御であるというだけで、似たような事は漏瑚や真人、陀艮ですらも思っているのだろうというのは、想像に難くない。儚の言動を楽観視するか、少しばかり不安に感じてしまうかは、それぞれの価値観に寄るだろう。

「……これは、ぼくが最近出会った人間の話なのだけど」

 儚はほぼ毎日をどこかしらの教会で過ごしているが、今までそこに儚を認識できるだけの呪力を持った人間が現れることはなかった。──もしかしたらいたのかもしれないが、少なくともそういう素振りを見せる人間はいなかったのだ。
 けれどここ数日、とある教会にふらりと現れた痩せぎすの女性。背筋は辛うじて伸びているが足下は覚束ない。肌には未だ若さは感じるけれど頬はこけている。酷く疲れた様子で、人間らしくない呻き声を上げながら教会の長椅子で蹲る。そんな風に、誰の目から見ても追い詰められているのが理由なのか。女性はただ静かに佇んでいた儚を人ならざる存在だと見抜き、話しかけてきたのだ。

 術式を用いていない限り、儚の姿が一般人に見えることはない。多くの人間からすれば、その女性は誰もいない場所へ向かって必死に話しかけ、会話を成立させているように見えてしまう。そこには正真正銘の呪いがいるにも関わらず、ただの人間である女性自身が不気味な存在だと思われてしまったのだ。

「“辛い”“苦しい”“誰か助けて”──彼女はそう繰り返していました。ぼく呪いに縋るほど彼女は追い詰められていたのに、人間は誰も彼女に手を差し伸べようとはしなかった」

 女性の主張はどうにも要領を得ず、儚は何故女性がそうも苦痛に喘いでいるのか、その理由を知る事はなかった。「可哀想にね、」儚は憐憫を以て、吐息混じりに呟く。

「教会は、神に救いを求める者が集まる場。けれど神父や信徒は彼女の排斥を選んだ」

「そうですね。えぇ、ですが……いえ、だからこそ。ぼくは対話を選ぶ」

 人間が作り出す群れから弾き出された女性は、やはり儚に縋るしかなかった。だが、人を呪う為の存在に一体何が出来るというのだろう。呪霊は人間を害する事はあっても、救う事はないのだ。儚には女性を救う術が分からなかったし、他ならぬ人々がそれをしようとしないのであれば、最早女性の道は閉ざされていたに違いない。


「ぼくの根源ですからね。人間を知る事は、自分自身を知る事にも繋がると、そう思っていますよ」

 森への畏れから生まれた呪霊である花御が草木を慈しむように、儚は親とも言える人間に愛情を持つのだと、花御に話して聞かせた。花御としても儚の言い分は共感こそできないが、納得するには足るものだ。ただやはり、漏瑚の言う通り“悪趣味”だと言わざるを得ない。……花御の場合は、心中に留めたけれど。

「ぼくはこれでも、人間と呪いの境界線はきちんと認識しているつもりですよ。人間との関わりは……それなりに長い、と思いますが、理解には遠く及びません。十人十色ということわざ、正しくその通りで」

 人間だから分かること、分からないこと。呪いだから分かること、分からないこと。
 双方の擦り合わせを行うことは非常に困難で、人間と呪い、そのどちらも相互理解を求めることはないのが大前提だ。
 そもそもが、人間同士でさえ分かり合えていないのに、それを呪いが成すなどというのは不可能なのだ。



 花御は問う。儚は少し驚いたような顔をして、はかなげに微笑んだ。

「ぼくはそこまでの理想を描いてはいないよ」
……」
「そう。ぼくは人間を好きだし、それを改める気もないけれど……百年後の荒野、その邪魔は決してしないとも」

「大丈夫。分かっていますよ」

 きっと花御が生まれながらに肌で感じている、人間がひとりもいなくなった世界というのはどのようなモノなのだろう。儚は瞼の裏でその情景を思い描いてみようと試みる。百年後、呪いこそが真の人間となった世界、果たして仲間達と共に見る世界はどう映るのか。