腑の覗き窓

 ──2018年9月某日。
 神奈川県川崎市、キネマシネマ。

 街中に建つごく普通の映画館が、今日ばかりは普段と異なる様相を呈していた。
 映画館の前にはパトカーが何台も停まり、救急車が慌てて走り去って行く。警告色のバリケードテープが、野次馬の侵入を頑なに拒んでいた。何事かと首を伸ばして様子を窺う人々が、警官に「近づかないでください」と注意を受ける。どこからかいち早く情報をキャッチした一人が殺人事件だと囁いた。ざわめきが治まらない人混みの最後尾にて、儚は文字通り人知れず、溜息をつく。

(これは……)

 儚がキネマシネマへやって来たのは、数日程前に真人から誘いを受けていたからであった。真人は儚と共に映画や小説といった人間が生み出した物語を見て、意見を交わす事を好んでいる。この日も、人間が比較的少ない映画館を見つけたから来てね──そう言っていたはずなのだ。
 映画館から微かに感じる気配。呪霊にとっては心地好くも思える残穢から、殺人事件だなんだと人間が騒ぎ立てている原因は真人だろうと、儚は当たりを付ける。呪術師が二人、映画館の中へ踏み込んでいく後ろ姿も確認していた。可能な限り気配を押し殺していたので気づかれてはいない様だが、この場に留まっていれば戻ってきた呪術師と戦闘になるのは必至である。戦闘面においては低級呪霊にも劣る儚では、ただ呆気なく祓われるだけだ。

 当然のことながら、真人は既にこの場から姿を消している。待ち合わせは確かにしていたが、儚が来る前に気分が変わってしまったのだろう。簡単に連絡が取れればいいのに、と儚は夏油が持っていた小さい電子機器を思い浮かべる。使い方は分からないが、便利そうだという印象は受けた。

(全くどこへ行ったのやら、隠れ家かな?)

 この場にいない真人への当てつけとして少し大きめの溜息をつき、儚は人混みから離れる。
 真人の隠れ家へ向かう間、警察のぼやきを聞いた。何故自分達よりも先に部外者が現場に入るのか、と。

「きみ達には呪いが見えませんから、仕方ありません」

 そう、何者にも聞こえない言葉を返した。





「真人」
「あ、先生!」

 儚が少々咎める様に名前を呼ぶと、ハンモックに寝転がる真人は嬉しそうに破顔した。文句のひとつでも言おうと思っていた儚だが、すっかり毒気を抜かれてしまう。

「ごめんねー、ちょっとうるさいのがいたから殺しちゃった!」
「はぁ……やはり、そうでしたか」

 口では謝っている真人だが、反省の色は全く無い。映画館にいなかった理由は想像通りだ。どこまでも自由気ままな呪いらしいと、同じ呪いとしては肯定すべきだろうかと儚は考える。ひとまずはそれを口にしないまま、目を見張って自身を見上げる少年に微笑みを向けた。

「こんにちは」
「ッ……こ、ん、にちは……」
「順平、紹介するよ。彼は俺の先生、人間のこと色々教えてくれるんだ」

 先生、と順平は真人の言葉を反芻する。
 大多数の人間がそうであるように、やはり順平も、ここまで外見の整った存在を目にするのは初めてのことだ。美人だイケメンだと担がれていた存在を霞ませる、圧倒的な美しさがそこにはある。

「順平はいつ真人と知り合いに?」
「ついさっき。映画館にいたんだよ、それで俺と同じ事が自分にもできるかって」
「……なるほど」

 儚は、順平が隠れ家に来た際に真人から「座らないで」と言われていた一人掛けのソファーに腰かける。(あの人の椅子だったんだ、僕が座ったらダメなはずだ)順平は自然とそう考えた。腰を落ち着けた儚は、順平に向かって手招きをする。
 呼ばれていると理解しながら、しかし順平は立ち上がることができなかった。自分が近づいていいものだろうかと、思考をぐるぐる巡らせる。

「おいで」

 その柔らかい声と、真人の優しげな「順平」という呼びかけに背中を押され、順平は儚の前に立った。儚は細長い指で順平の右手を慈しむように握る。

「真人に力を乞い、手に入れた先。向けたいと願う相手がいるんだね」

 儚はどこか悲しげな表情を浮かべていた。順平に同情し、その心に寄り添おうとしている様な。一方で、荒んでいる順平の心は、積もり積もった復讐心を否定されているようにも感じてしまっていた。いけませんか──そんな刺々しい台詞は吐けなかったけれど。

「哀しい事です。いつの時代も、人間の中には被害者が存在する」

 涙は流れていないはずなのに、泣いているように見えるのは、儚の心がそうだからだろうかと順平はそんなことを考える。
 そして小さな違和感を覚えた。

「……? あの、先生は……人じゃないん、ですか?」
「順平にはどう見える?」

 返事をしたのは儚本人ではなく、二人の様子を静観していた真人だった。順平が初めて真人を見た時には、その所業で人ならざる存在だと確信したが、真人が人間の姿をした呪いであることを知った今、やはり人間とは何かが違うのだと肌で感じ取れた。
 儚を初めて見た時には、人間離れした美しさのヒト──と無意識下で思い、改めて熟考してみたところでやはり人間にしか見えない。だが違和感を覚えた口振りといい、それに。

「……人、ではないと、思います」
「へぇ、どうして?」
「人であるには、あまりに、綺麗すぎる」

 順平の解答を聞いた儚は、深く頷いて肯定を示した。「聡い子だ」ソファーから立ち上がり、順平の頬に手を添えて、顔を覗き込むように見下ろす。長い人差し指が、前髪で隠れた傷跡を仄かに掠めた。

「その通り。ぼくは真人と同じ、人から生まれた呪いです。人間の皮を被り、らしく見せかけているだけの」
「…………じゃあ、やっぱり、真人さんと同じ……?」
「いいえ。──円滑に社会を築く為に表側だけを美しく模った数多の感情、そしてそれに対する疑念。ぼくの母たる存在は、そんなものです」

 言いながら、儚は下ろしていた瞼を持ち上げる。順平は喉奥で引き攣った声を辛うじて押し殺した。

 目は口程に物を言うとはよく言ったもの。一体どれだけ綺麗な双眸だろうという想像は、無惨に砕け散る。
 儚の両眼は呪いのそれだ。強膜はどす黒く染まり、開ききった瞳孔が作る闇の中、髪と同じ血色の光が順平を射抜いている。

 儚は順平から離れ、ソファーに座り直す。その時にはもう瞼を下ろし、ただひたすらに美しい──人の形をした呪いとして在った。口元には完璧なまでの笑みを浮かべる。

「猫被りって、よく言うでしょう? だからぼくは、人間きみが見ても呪いが見ても、美しいのです」

 外面が良い人、八方美人の究極系。儚は己の事をそんな風に面白おかしく形容してみせる。

「見た目だけ、ですからね。人らしく過ごすには、あまりに欠けている」
「いいじゃない、呪いらしくって。俺は好きだよ」
「……ありがとう、真人」