広い道場内に、竹刀のぶつかり合う音が響く。
瞬きさえ許されないような攻防の中、千尋は不意に足を滑らせて後ろにひっくり返った。
「どぁっ!」
「あらら。大丈夫か、マスターちゃん?」
「ッてぇー……汗で滑った……」
冬であることを忘れてしまう程に体温が上がっている。額から流れ落ちる汗を雑に拭うと、千尋は壁に立てかけていたモップで簡単に床を拭いた。部活中に滴った汗で足を滑らせる、なんて真似はしたことがないので、それだけ斎藤との稽古がハードであることを意味している。
初めての打ち合いから、実に三日程空いてしまっている。ようやく、もう一度斎藤一の剣が見られると、千尋は朝から息巻いていた。稽古をつけてもらえる時間も限られているというのに、こんなくだらない事で集中力が途切れてしまうのはいただけない。
千尋は鞄の中からハンドタオルを取り出すと、それを額に巻き付けた。魔術で結び目を固定してしまえば、動き回っている最中に外れてしまう心配をすることもない。
「よし。もう一本お願……あ、やっぱ待って」
「はいはい」
竹刀を構え直したかと思えば、千尋は斎藤に背を向けてブツブツと何事か呟き始めた。あくまで“稽古”であるとは言え、武器を持った相手に背を向けるなど士道不覚語──という台詞が斎藤の脳裏に浮かんだが、千尋は新選組隊士という訳でもないとすぐに思い直した。これが打ち合いの最中の「待った」であれば、問答無用で竹刀を振り抜くのだが。
(……そういえば、何で突然沖田の話をしたんだ?)
魔術刻印の移植後、長いこと眠っていた千尋が目覚めた時のことを、ふと思い出す。
あの時は、寧ろ斎藤の知る“沖田総司”が男として伝わっていることに驚いたものだが、いま千尋の口振りを思い返してみれば、どこかで沖田を見てきたかのようだった。その後の「セイバーみたいに自由でいたい」という言葉も、一体どうしてそう思ったのか。苦痛に押し出された本音らしいことを思えば、ただちゃらんぽらんで適当な斎藤を羨ましがる台詞でもないはずだ。
「よし! 今度こそ準備できた! ……セイバー? 何か考え事?」
「ん? あぁ、いやいや。そんな難しそうな顔でもしてた?」
「難しそうな顔っていうか……あー、オレが何か隠してる時に“さっさと吐けよ”って思ってそうな顔」
「僕この数日でそんな顔してたの」
「ははは」
確かに千尋に聞きたいことはできたけれども、と斎藤は顎に手を添える。表情を通じて、本人にそれが伝わってしまうのは、監察としていかがなものか。
「うーん、でもま、大した事じゃないし、マスターちゃんの部活が終わった後でいいな」
「今は時間が惜しいからそれで頼む」
「やる気があってよろしい」
互いに竹刀を構え直し、千尋が一歩大きく踏み込む。受け止めた竹刀から伝わる力が先程よりも増していることに気づいた斎藤は、不思議に思いながらも片腕でいなし、「脇が甘ェ!」と竹刀を振った。
「っぶねぇ……」
間一髪で斎藤の竹刀を受け止めた千尋は、すぐに攻勢へ転じる。(何か仕掛けがあるな)と確信を得た斎藤は俄かに口角を上げた。
真っ当な剣道ならばいざ知らず、斎藤の剣術におおよそ“型”というものは存在しない。“今こう振るったから、次はこうだろう”──などという予測は、するだけ無駄であった。
だからこそ知りたい、身に付けたい。そう思って稽古に臨んでいる千尋だが、それでもやりづらいことこの上ないと、幾度とない舌打ちを零す。
「そら!」
「だッ!!」
脳天に落ちた一打に、千尋は膝をつく。「どうした、さっさと立て」と言う斎藤に、玄孫への容赦などない。もちろん、この程度で千尋の心が折れることもなく、負けじと立ち上がろうとしたが、ぐらりと体をふらつかせて竹刀を手放した。
「うぇぇ……頭痛ェ……」
「そんな強く頭打ってねぇだろ。どうした?」
斎藤は目線を合わせるようにしゃがみこみ、千尋の様子を窺う。千尋は瞼を下ろし、眉間に深いシワを刻んで額を押さえていた。
「酔った……」
「酔ったァ?」
「慣れないことしたから……」
「あぁ、確かにさっきより反応も良かったし、腕力も増してたな」
まず、斎藤の動きについて行けなければ、剣術を体に叩きこむどころではない。
千尋は以前の打ち合いの後、早いところ体力をつけるか、斎藤の動きに慣れなければと考えていた。しかし先程、タオルの結び目を魔術で固定した際に、「身体強化をすればいいのでは?」と思いついたのだ。腕力や脚力の強化は当然として、斎藤の竹刀捌きを見切る為の動体視力の強化も行っていた。これは成功だったと言えるし、失敗だったとも言える。
強化をしたおかげで見切れるようにはなったが、視覚情報の処理に脳はパンク寸前だった。視覚強化のみでこうも脳に負担がかかることになるとは、と千尋は溜息を吐く。
「うーん……発想は絶対に悪くなかった……。要練習……」
「いやぁ、魔術って色んな事できんのねぇ。僕には全く無い発想だわ」
150年近くの時が経つと、子孫ってこうも変わるのか……と斎藤はしみじみと思いながら、特に意味もなく千尋の頭を撫でる。斎藤がこうする事で、いつもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた千尋だが、今回ばかりは「やめろ」と低く唸った。頭が揺れて気持ち悪いらしい。
「……どうする? 今日はやめとくか?」
「いや、やる。まだやる。時間あるし、もったいねぇ」
やるったらやる、と千尋は立ち上がった。
「ハイハイ。じゃあ気張れよー」
◆
剣道部の活動が始まる三十分前になり、ひとりの女子生徒が顔を覗かせた。肩で息をしながら大の字にひっくり返っている千尋を見ると、「大丈夫?」と呆れ顔で歩み寄る。
「うわ、汗だくじゃん。自主練?」
「あー……? あぁ、まあ……そんなとこ」
「真面目だね。ウチの剣道部、別に大会優勝とか狙ってないのに」
千尋が上半身を起こすと、その女子生徒は鞄からスポーツ飲料を取り出して、千尋の頬に当てた。ひやりと冷たいそれに千尋は思わず肩を跳ねさせる。
「あげる。水曜から学校休んでたでしょ? 水分取った方がいいよ」
「……あぁ、ありがとう。助かる」
「どういたしまして」
今度クレープ奢ってね、駅前のやつ。そう言って、女子生徒は歯を見せて笑う。千尋は女子生徒からもらったスポーツ飲料を飲みながら、片手の人差し指と親指で丸を作り、了承を示した。
「ッフー……渡内、来るの早くない? まだ先生も来てねぇのに」
「え? うん、今日は……ちょっと早く出たから! ってか、それ言ったら斎条の方が早いじゃん? いつも何時に来てんの?」
「んー、今日は七時くらいだな」
「はっや! ……フーン、そんなにかぁ……。やっぱ真面目だね」
千尋は空になったペットボトルを握り潰し、早く来ているのは剣道に打ち込む為ではないけど、と内心付け足す。
「もう飲んだの!? 早っ」
「マジで助かった。オレ、普通のお茶しか持って来てなかったし。サンキュー」
そう言って、千尋は汗を流す為に男子更衣室へ向かう。強豪校でない割に、充実した設備の道場。冬場に使わなければならない程の汗をかいたのはこれで二度目だが、シャワールームまで設置されていることには有難さを感じる。
更衣室に入ると、楽しげな声で斎藤が話しかけた。
『マスターちゃんもなかなか隅に置けないじゃないの?』
「は? なに?」
『さっきの子。彼女?』
「いや違う。同じ剣道部で、えーっと、隣のクラスだったはず」
彼女に見られる程親しげにした覚えはないな、と千尋は首を傾げる。
『え? マスターちゃん、そういう感じ?』
「そういう感じってどういう感じ?」
『いや……。あー、彼女とかいないの? 年頃でしょうよ』
シャワールームに入り、頭からお湯を浴びながら、千尋は念話に切り替えて会話を続ける。斎藤は霊体化したまま、部室の壁に凭れて他の部員がちらほらとやって来るのを眺めていた。
『うーん、今はいないな。中学の頃には、一応……好きな女子もいたけど』
『…………けど?』
『やめたんだよ、良くないと思って……。セイバーはその辺だらしなさそうだな』
よく言えば人当たりの良い、悪く言えばだらしない。他人の懐にするりと入り込んできそうな、斎藤のヘラヘラとした笑顔を思い浮かべる千尋。安易に刀を向けたりしないのであれば、モテたんだろうというのは想像に難くない。
斎藤は千尋にどういう意味だと尋ねようとしたが、シャワールームを出た千尋はそのまま他の部員と会話を始め、斎藤が入る余地は無くなってしまった。
「おっす、斎条ー。この時期にシャワー浴びるヤツ、初めて見たんだけど」
「汗かいたんだから仕方ないだろ」
「どんな練習してたら汗かくんだよ。強豪行ってないの謎過ぎるだろ、おまえ」
「んー、家から近いしココ」
「分かる。オレもそれで入ったし。ってかさぁ、さっき──」
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