なにか、特別な理由があったワケではなかった。ただ、歩き慣れた道だったから。
藤丸の足はごく自然に医務室がある廊下へ向いていた。なんとなく。無意識に。自覚なく。
医務室が近くにあるのだと、わざわざ思考すらしなかった。けれどその事実を唐突に思い出したのは。──通りがかった医務室の扉越しに、なにやら物音が聞こえたからだった。
藤丸の心臓がドキリと跳ねた。とっさに──転んだ拍子に両手を前に伸ばすくらいとっさに──藤丸は医務室の扉を開けた。
「ドク……っ」
「あ」
そこにいたのはゆるゆるふわふわした医者ではなかった。医者が座していた椅子に腰を下ろし、饅頭片手に口を開けている男。気の抜けた、言ってしまえば間抜けな表情を浮かべているのは、ドクター・ロマンの友人である千尋だった。
「……千尋さん?」
「あーいや、これはホラ。違うんだよ。ええと、えーっと」
藤丸が名前を呼べば、目に見えて狼狽える千尋。饅頭を机上の小さな皿に乗せ、咳ばらいをひとつ。
「ゴホン。…………立香ちゃんも食べる?」
「あ、じゃあ、いただきます」
「お茶淹れるね」
千尋は藤丸よりもよほど、この医務室のどこに何が置いてあるのかを把握しているようだった。
煎茶の入ったカップを差し出し、千尋は再度「違うんだよ」と言った。藤丸はお茶を冷ましながら千尋を見る。
「あいつが隠してたおやつを腐らせたりカビ生やしたりするのはもったいないと思って……」
「ドクターが隠してたおやつ、把握してるんですか?」
「はは、そりゃな。俺が知らないことなんて……、……一番大事なことだけだよ」
千尋は饅頭をひと口で食べてしまうと、口に広がる甘味を少し苦い茶で流し込む。
「こしあんだった」
「ん、ホントだ。ドクター、こしあん好きでしたよね」
「そうだな」
藤丸も饅頭を三分の一ほどかじり、お茶を飲んでほうっと息を吐く。あんこと緑茶以上に相性の良いものはなかなかないのではと思う。
そんな藤丸を穏やかな目で見つめる千尋が、頬杖をつきながら「意地悪なこと聞くけど」と言った。
「ここに入ってきた時、もしかしてロマンが帰ってきたんじゃって、思っただろ?」
「…………。…………はい」
時間神殿での出来事を夢だとは思わないし、思えない。藤丸とて、あの場所での出来事をきちんと受け止めている。だけど、それでも。──喪失を認めることは、まだ慣れていなかったのだ。
なにか、それこそ奇跡でもなんでも起きて、あの人が帰って来てくれたら。
「責めてはないよ。俺としても……うん。立香ちゃんがそうして悲しんでくれるのは、ありがたい。大人になるとそういうの、下手くそになるからさ」
「…………」
「悲しいなら悲しい、さみしいならさみしいって、今の内に言っておくべきだと思うよ。じゃないと、いざという時何も言えなくなるからな」
……聞く相手が俺なのが嫌じゃなければ。
千尋の言葉につい、藤丸はぽろりと涙をこぼしてしまった。きっと、場所が医務室で、甘いものを食べたから気が抜けていて、お茶で水分補給をしてしまったからだ。藤丸はそんなめちゃくちゃな言い訳を、頭の中で組み立てた。
「わ……わ……わたし……」
藤丸は言葉を詰まらせる。喉の奥で引っ掛けたまま、吐き出せない言葉がある。
「うん」
そう、千尋が相づちを打った。急かされた訳ではなかったが、許されている気がして、溢れた。
「どう、……ど……して、ドクタ、のこと……ッ、止めて、くれなかったんですか……!?」
「…………ああ」
「千尋っ、さんが! ぜ、全力で、止めてくれ、てたらっ! ドクター……いなく、ならなかったかも、しれないのに!」
言いながら、藤丸は両目からとめどなく大粒の涙を流していた。千尋が手でそれを拭ってやると、涙はさらに溢れ出す。
「うえぇんっ! 千尋さんにこんなこと言いたくないよお! でもっ、でもぉ! わ、わたし、わたしっ、もしかしたらって……おも、思っちゃってぇ……! でもでも、でも……わたしっ、生きたくて、それだけで! ドクターが、ドクターがぁ……っ」
失ったものがあまりにも大きすぎて、気持ちの整理がついていなかった。藤丸はただ生きるために戦っていて、人理焼却を阻止し、今もこうして生きていられることが嬉しい。だが、ロマニが一緒ではないことがこんなにも悲しい。
もしかしたら、あれだけ仲が良かった千尋であれば、ロマニを止められたのではと考えた。力ずくで止めてくれたのではと。
けれど、事実。ロマニの消失と引き替えに、藤丸は生き残った訳で。
千尋に非はない。それが分かっていてもなお、こうして感情をぶつけてしまう自分が、藤丸は嫌だった。
「────……ごめんね」
「あやまられるのやだあ!!」
「えー……?」
「うわああん!」
泣きじゃくる藤丸の背中を、千尋はやさしく一定のリズムで叩く。自身の胸元に縋りつくようにして泣く少女に、安堵すら覚えた。
──藤丸立香しか、それを為せる人間がいなかった。
本来人理修復にあたるはずだったメンバーは、今もコフィンの中で凍結保存されている。数合わせでカルデアに呼ばれただけの少女が背負うには、人理というのはあまりにも重すぎる荷だ。
けれども藤丸は、やり切ってみせたのだ。彼女の奮闘あって、人理は取り戻された。その健闘を称えるのであれば、魔術協会の階位などではなく、彼女が本来過ごすべきであった時間を贈るべきだと、千尋は考える。──ロマニも、そう望むだろうと。
(あの旅を終えてもまだこうして泣けるのなら、よかった。本当に……)
悲しみを共有し、代わりに感情を発露してくれる存在に、千尋は感謝の念を募らせた。
◇
未曾有の大災害とでも言えばいいのか。『憐憫』の理を持つ獣、ゲーティアの大偉業と言うべきか。
人理焼却の事実を正確に把握し、観測していたのはカルデアだけだ。魔術協会も国連も、この事態に対して大層お怒りである。
確実に一年が飛んでいる──という事実だけは認めざるを得ないものの、カルデアが独断で行った数々のレイシフトや英霊召喚は、決して許されるべきことではないと。そもそも許可をとる先がいなくなっていたという意見は、ものの見事に無視されている。アニムスフィアの家督を継いだオルガマリーが死亡した事もあり、現在カルデアは宙ぶらりんの状態だ。元々、マリスビリーは魔術協会でも異端扱いされていたそうだから、これを機にネチネチと責められ、功績だけを根こそぎ奪われるのだろうことは想像に難くない。
人理修復から約一年を説明や交渉に費やした。近い内、カルデアに魔術協会に選ばれた新所長と国連からの査問団がやって来るという連絡を受けた千尋は、「クソ魔術師共がよ」という嫌悪感を全く隠しもしない悪態を吐き捨てた。いつもならダ・ヴィンチか村正が諌めるところではあったが、今回ばかりはカルデアスタッフ全員が同意を示していた。
人理焼却は阻止され、カルデアはアニムスフィアの物ではなくなる。人理修復に協力すべく召喚に応じたサーヴァントたちは、査問団がやって来る日までに退去する運びとなった。一騎、また一騎と姿を消し、カルデアはどこか物悲しい雰囲気を漂わせる。
……少し前までは、アステリオスがジャック・ザ・リッパーやナーサリー・ライムを肩に乗せて走り回っていた廊下は静まり返っている。悪趣味と揶揄したくなるほど黄金に輝いていたボイラー室横の部屋は、今や元通りだ。厨房では、エミヤがひとり数日分の仕込みをしていた。
すっかり騒がしさに慣れてしまっていたなと、千尋は小さく息を吐く。角を曲がったところで、「ああ、いたいた」と声をかけられた。千尋は思わず瞠目し、片手を挙げるサーヴァントに駆け寄る。
「一ちゃん! もう退去したものかと」
「マスターちゃんには挨拶済ませたんだけどね。孫に何も言わずに去るのは違うでしょうよ」
斎藤は目尻を下げ、千尋の顔を覗き込むようにする。
「あれ? 今度は泣いてくれないの?」
「俺もいい大人だからなぁ」
あはは、と笑う千尋。──聖杯戦争の時は、そりゃあもう泣いた記憶がある。あれだけ涙を流したのは、きっと赤ん坊の時以来だとすら、今にしてみれば思う。
それはそうだろう。あの時の斎藤は……“セイバー”は、千尋にとっての唯一だったのだ。未来を夢想し、敗れて叶わず、喪失に喘いだ。セイバーと共に生きる未来は、今でも理想として千尋の胸中にある。けれど夢を見るのは諦めた。諦めることができてしまった。それを成長と呼ぶのか、心の麻痺と呼ぶのかは、分からない。
「わざわざこうして言われると、やっぱり寂しいけどな。知らない内に退去してくれてたら、忙しくて気づかなかっただろうに」
「ドライねぇ」
言いながら斎藤は、この孫に限ってそんなことはないだろうと考えた。斎藤が何も言わずに退去しても、千尋はどこかのタイミングで確実に気づいたはずだ。そして「もう自分はマスターじゃないから」なんてことを考えて、軋む心を押し込める。……そういう人間だ。
斎藤は千尋の頭に手を乗せる。優しい手付きで髪をかき混ぜるようにして撫でた。
「僕に誤魔化しが通じると思うなよ? 千尋」
元来、責任感が強いのだろう。所長代理であったロマニがいなくなり、もうすぐ一年が経つ。その空席に座った千尋は、スタッフ達の前では今まで一度も弱音を吐かなかった。ロマニと千尋が非常に仲の良い友人だったのは周知の事実であったが、いっそ薄情にも思えるほどに、所長代理として責務を果たしている。
友を喪って、千尋が平気でいられるはずがない。誤魔化しだけが歳を重ねるごとに上手くなっているだけだ。
千尋は一歩退り、「やめてくれ」と言う。
「俺いま所長代理だからちゃんとしなきゃいけないんだよ……。やる事山積みだし、ほんと、泣いてる暇とかないのに、もう」
くしゃりと顔を歪めた千尋は、喉の奥から込み上げてくるものを飲み下し、斎藤の肩めがけて拳を突き出した。叩くというには重く、殴るというには弱い。
「駄目だ、一ちゃんの前だと涙腺が緩くなる。くそ、くそ」
「いいじゃないの。ほら、ちょうどここに空き部屋がある。溜め込むのが向いてないのは自覚あるだろ? おじいちゃん、ちゃんと黙っててやるから吐き出せよ」
「いや、俺忙しい。そんな時間ない」
「大丈夫大丈夫。あの別嬪さんに話通してあるから」
「レオナルドとグルかよ……」
斎藤が少し丸まった背中を叩くと、空き部屋の扉が開くと同時に千尋の目から大粒の涙が零れ落ちた。
聖杯戦争ではおよそ一ヶ月ほど共に過ごしたが、千尋が泣いたのは自分が退去する時だけだったなと、斎藤は記録を思い返す。2004年と地続きの感覚ではあったけれど、記憶と呼ぶにはやはりどこか温度に欠けている気がした。
「千尋」
名前を呼ぶと、千尋の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。斎藤が指で拭ってやってもキリがない。
声を押し殺しているのも、本心をなかなか口に出来ないのも、育った環境によるものだろうか。斎藤は、きっとその推測が正しいことを確信しながら、じっと千尋の顔を見た。
まばたきもせず、どこか一点を見つめて涙を流し続ける千尋の目には、何が映っているのだろうか。やがて千尋は深く息を吸うと、蚊の鳴く様な声で名前を呼ぶ。
「……ロマニ……」
自分がこんな調子で呼びかけたなら、きっと大慌てで胡麻団子でも差し出すんだろうなと、千尋の中の思い出が告げている。口喧嘩をしたこともあったし、顔面を殴ったこともあったし、直せよなと思う所もいくつかあった。忘れることを努力するような、苦々しい記憶もあったはずなのに、ロマニと共に過ごした時間だったというだけで、その思い出は眩しい。
「あーー…………」
何でだろうな、と千尋は無気力に呟いた。
「セイバーも、ロマニも、帰って来ない。……一緒にいられるだけで十分だって思う奴ほど……」
「…………千尋」
「また置いていかれた」
低く、千尋は呟く。涙に混ぜて垂れ流したはずの感情が、この一瞬は凪いだはずの心が、腹の底で沸いて喉奥からせり上がる。
「行くなって、言いたかった。セイバーにも、ロマニにも、言いたかった。隣にいて欲しかったから、行くなって……なのに、俺、オレは……っ」
丸く縮こまった背に、斎藤は触れる。血の通わない仮初だったのだとしても伝わる熱に、千尋の中で何かが崩れた。
「ッ、言えなかった……声に、出せなかった、言葉にできなかった! 伝えたいことがあるのに、言いたいことはそれじゃないのに、見送りたくなんて、ないのに……言えなかった……ッ!!」
退去する“セイバー”に出来ることは何も無かった。それが歯痒くて悔しくて虚しくてやるせなくて。ただ、ひとりにしないで欲しかったのに、それすらも伝えられなかった。あの時の千尋は「セイバー」と、一つ覚えのように呼びかけることしかできなかった。
やはり、出来ることは何も無かったのだろうけど。千尋は去りゆく背を見送るばかりで、その手を掴むことができなかった。手を伸ばせば届く、行くなと止められる、──身体は千尋の望み通りには、動かなかった。
「…………俺にやるべき事だけ遺して……後追いとか許さないよな、そりゃ。……するつもりもないけど、ずるいよなぁ……」
深呼吸を繰り返し、涙が止まると袖で目元を拭う。鼻声で、下手くそな笑顔を浮かべながら「セイバーの前じゃないとこんな事言えない」と言った。
「……そうかい、そいつはよかった」
「でも……こう、マジで寂しくなるから……適当にあしらわなかったの後悔し始めてる」
「僕のこと適当にあしらえないでしょ。大好きなセイバーなんだから」
「うるさい」
図星だったのだろう、千尋は眉を寄せる。その眉間のシワを伸ばしながら笑う斎藤は、次第に表情を失くすと、低く問いかけた。
「なあ。この後はどうするつもりだ?」
「うーん……立香ちゃんを見送ったら、そうだなぁ。しばらくはカルデアにいるつもりだ、マシュのこともあるし。カルデアに来る新所長だの、魔術協会次第ではあるけど……。事が片付いたら……あー、はは、どうしよう」
以前、ロマニに「カルデアに留まる理由はない」と指摘された。その時にはたとえカルデアをクビになっても、どうにでもなるだろうと答えた。今もその答えは変わらないが、残された時間をどう過ごすかと考えてしまうと、途端に迷いが生まれる。
「どうしよう……」
もう一度セイバーに出会えると思ったから、カルデアで働いた。その内に人理焼却が起きて、未来を取り戻すために奮闘し続けた。過程で、夢を諦めた。
目的も、目標も、失ってしまった。新しく何かを為すには、どうせ時間が残っていないのに、なんて考えが過ぎると何も浮かばなくなってしまう。
「やりたい事は?」
「えー、うーん、えー……無敵流を極める、とか?」
「そうか。なら……そう、だな……」
斎藤は真剣な眼差しで千尋を見据える。
「なら、もう一度俺の召喚を望んでくれ。今度こそ、お前だけのセイバーとして一緒にいるから」
眼球が零れ落ちそうなほど目を見開いて驚く千尋。まさか斎藤がそんなことを言うとは思わなかった。言ったとしても、『ヘラヘラ新選組』の肩書きに相応しいふざけ方で、冗談としてだ。
「……ははっ。本気かよ」
「冗談に聞こえるか?」
「全く」
どこまでできるかな、と千尋は考えた。脳裏に友人の苦言が聞こえたような気がしたけれど、文句があるなら直接言いに来いと、強気に思う。
「努力するよ」
──あの日から、人生の目標にはいつだって斎藤一がいる。
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