吐く息は白く染まり、どこからか吹く風に流されていく。暗く、澱んで、乾いた、地の底。対ティアマト戦においては、ここ以上に頼もしい場所などないと思った冥界だが、やはり牙を向けば自分が招かれざる者であることを肌で理解させられる。
「マスター……これは……」
「うん、まさか……ここまで思い切ったことをするとは思わなかった」
特別戦としてスカサハが呼びつけただけのことはある、と藤丸は唾を飲み込む。ミスターMには確かにできない芸当だ。藤丸にも、同じことはできないだろう。仮に同じ作戦を思い付いたとしても。
普段エレシュキガルが宝具を使う時は、藤丸の魔力量が非常に少ないことも相俟って、出力を大幅に抑えている。そのおかげで忘れていたのかもしれなかった。
本来の彼女の宝具は、ウルク全体に冥界の門を開き、ティアマトを一時でも抑え込んだ強力なもの。ウルクよりも余程狭い古城を冥界化する程度のこと、出来ないはずがないのだ。
とはいえ、シミュレーターで作り出されたフィールド全体を冥界に落とすとなれば、千尋の豊富な魔力量を以ても、令呪の使用が必須であるはずだと、藤丸とマシュは推測する。
フィールドの冥界化、加えてその維持。消費された令呪が一画であると仮定するならば、時間が経てば宝具の効果も切れるだろう。その間、藤丸陣営は千尋陣営が圧倒的に有利な状況で戦わなければならない。フィールドが元に戻るまで耐えられるかどうか──そして、もしも仮に、令呪を三画費やしていたら。
「……千尋さんなら絶対それくらいやる」
自分の魔力を費やすよりも、令呪を使ってしまった方が、彼の場合は効率がいいから。
「トリスタン、アナスタシア! 状況は!?」
念話で問う。エレシュキガルを真っ向から相手にしているはずの2騎は、この状況で一番追い詰められているはずだ。
脳裏に響く藤丸の声に、トリスタンは嘆息しつつ眉を寄せる。
「ああ……私は悲しい。寒々しい冥府の底では、我が竪琴の音色も届かない」
無数に迫る槍を模る赤雷と、遠方より飛来する火の矢を、トリスタンは絶え間なく弦を弾いてどうにか相殺している。冥界にも空気があることだけが救いだった。隙を見てはエレシュキガルや巴御前の方にも不可視の矢を飛ばすのだが、冥界の護りは強固で、トリスタンの攻撃は全て防がれてしまっている。
「ヴィイ、そう。そこね……」
トリスタンとアナスタシアの足下から突き出る岩が、2騎の足をその場に固定する。アナスタシアはヴィイの〔透視の魔眼〕を使用して脆い部分を見つけ、適宜破壊して動いていた。
動き続けようとすれば蹴躓き、飛び上がろうとすれば重力に押し潰されそうになる。「私の冥界での浮遊権、貴方達には許可していません」毅然と言い放つエレシュキガルは、厳格にして美しい冥界の女主人の姿をしている。
ジリ貧だ。辛うじて持ちこたえてはいるものの、長くはもたない。
状況を打開しようにも、宝具の使用すらも許さない猛攻が、トリスタンとアナスタシアを襲い続けている。
「……マシュ、前に出よう! マシュの宝具で二人を守っている間に、畳みかける!」
「はい……! では慎重に、行きましょうマスター!」
藤丸とマシュは最短ルートを選び、正面から中央へ向かう。
フィールドは冥界に落ちたが、古城自体が失われた訳ではない。中央──現在エレシュキガルが陣取っている場所へ向かうには、大きく分けて三つのルートがある。
一つ目が現在藤丸たちがいる正面のルート。中央まで最短距離で向かうことができる反面、障害物がないため姿の目視が容易で、進路を予測されやすい。
二つ目が藤丸陣営から見て右側のルート。大回りになるが、敵本陣への侵入も可能である。ただし中央との間に高い壁があり、全体の様子を窺おうと登れば格好の的になってしまう。下の道は多少陰になっている程度だったが、暗い冥界に落ちたせいで視界が非常に悪い。
三つ目が左側のルート。塔や適度な高さの壁が多く、入り組んでいる。中央より南側は敵を迎え撃つには良いスポットだが、前に出過ぎて裏へ回られた時には弱い。中央へ奇襲をかけるのであれば、立地的には一番向いているだろう。北側へ向かう場合にはやや視界が狭まる。
アーチャークラスで現界し、目の良いビリーが右のルートを。〔気配遮断〕のクラススキルこそ無いものの、隠密行動を得意とする斎藤が左のルートを進んでいた。
……不意に、ビリーは足を止める。流れるような動作で銃を抜き、陰に向かって三発撃ち込んだ。
「おっと。何もしてねぇのに見つかるなんてことあるかね?」
「僕のシックスセンスの賜物さ。落ち込むことはないよ」
不敵に、得意気に。二人はそれぞれ異なる笑みを、口元にのみ湛える。
『マスター、東に燕青を確認したよ。逃がさない方がいいよね?』
『! うん、そこで引き付けてて!』
「……了解っと」
藤丸を安心させるように、明るい声色で話していたビリーはしかし、鋭い瞳を眼前の燕青に向ける。
千尋陣営のサーヴァントは、フィールドが冥界化したことでエレシュキガルの加護を受けている。ビリーは燕青と何度か共闘した経験があるが、その時見た実力を基準にしない方がいいだろうと考えた。女神の権能が具体的にどの程度及ぶのか、神秘の薄れた時代を生きていたビリーが判断するのは難しい。
藤丸陣営にとっても、〔気配遮断〕のクラススキルを持つ燕青の存在は厄介だ。エレシュキガルや巴御前に気を取られ、藤丸にその凶拳が迫っていた……となれば洒落にならない。
燕青の〔気配遮断〕のランクはC。ハサン達程の高ランクでないことが救いだが、併せ持つ彼の中国拳法は侮れない。如何なサーヴァントと言えど、不意を突かれるのは避けたかった。
(僕は彼を止める理由があるけど、彼には僕と戦う理由がない……やりづらいな)
千尋陣営が圧倒的に有利である以上、燕青がビリーの思惑通り、足止めに乗ってくれるかどうか。……乗せるしかない訳だが。
む、と口を尖らせ、暗がりに紛れて薄ら笑いを浮かべる燕青の眉間を狙って三発、弾を放つ。長い髪がたなびき、弾は空を突き抜けていった。彼の黒髪は陰に溶け込んでしまうので、恐らくは髪を掠めたとは思うが、手応えがまったく感じられない。
(僕の早撃ちを見切った? ……いや、初めから狙いが分かってたって感じだ)
そこでふと、ビリーは燕青が正規の英霊とは少々異なる成り立ちをしていることを思い出した。
亜種特異点・新宿にて、幻霊魔人同盟なるものを組んでいた彼の霊基には、ドッペルゲンガーが混ざっている。
思考を止めないまま、ビリーは攻撃を続ける。狙いが定まりづらい暗がりというのも勿論あるのだろうが、奇妙に弾が当たらなかった。「自信なくすなぁ」と銃口から漂う白煙を吹くビリー。
(もしかして、思考のクセを読まれてる?)
スキル〔ドッペルゲンガー〕がどこまで模倣可能なのかを、ビリーは知らない。彼が知るのは亜種特異点・新宿のマテリアルにある程度だ。数多の霊基を模倣し、燕青自身の自我が希薄になっていたらしいことを思えば、やろうと思えば人格まで完璧に模倣できるのではないだろうか。
カルデアではドッペルゲンガーらしいことをしている素振りはない。する必要がないと言われればそれまでだが、自我を保つ為だとも考えられる。
(……いや。やるよな、彼なら)
──藤田千尋という男なら。
そして、燕青というサーヴァントなら。
それが藤丸にとって必要な経験値となることを確信したとなれば、彼女を想う彼らは全力を尽くすだろう。
今回の聖杯戦線。これから先の異聞帯攻略において藤丸が少しでも命を繋げられるように、高い高い壁となってみせるはずだ。その為なら、多少燕青の自我がブレる程度のことは気にしない。
自由選出枠である斎藤を除いたサーヴァントの霊基を模倣し、思考パターンを学習した後に臨むくらいのことは、きっとやらせるし、やってのける。
仮定が正しいとするなら、手の内はすべて知られている。フェイントも通用しない。
(まあ、だからと言って……)
「負けないけどね? 僕」
前頁 戻る 次頁