翌朝、朝の澄んだ空気で満ちた通学路を、千尋はひとり歩む。
昨晩は疲れていた割に──疲れていたからこそ、かもしれない──深い眠りにつき、寝起きも良かった。こんなに気持ちよく眠れたのは久々だ、なんて感動を覚えるくらいには。
(寝起きのセイバーはよく分かんねぇこと言ってたけど……)
今も霊体化して傍にいるであろう斎藤の不可解な言動を思い出す。
今朝、目覚まし時計が鳴るよりも先に、千尋は念話で斎藤に起こされた。『そろそろ起きた方がいいんじゃない?』と言われ、慌てて時計を確認すれば、普段起きている時間より一時間も早い。
覚醒し切っていない頭で、千尋は「ジジくせぇ……」とぼやいたのだ。近所に住むご老人がやたらと早起きなのを知っていた。
斎藤はそれに対し、『じいちゃんだし?』と何故か得意気に返した。千尋はどう贔屓目に見ても孫がいるような年齢には見えない斎藤の容姿を思い浮かべて、(何言ってんだこいつ)と感想を抱いた。こちらは、口には出さなかったが。
まぁ多分、セイバーも寝惚けてたんだろうな。……そんな事を考えながら学校へ着くと、千尋は教室ではなく、道場へと向かう。
道場内から隣接する部室に入り、個別ロッカーに荷物を詰め込んで、道着袴に着替える。部室に置かれている竹刀を手にしたところで、『ぶはっ!』と斎藤が吹き出した。
「セイバー?」
『あぁ、いや、ごめんごめん!』
怪訝そうに自身を呼ぶ千尋に、斎藤は平謝りをする。
『別にマスターちゃんを笑おうってんじゃなくてな? いやぁー……因果なモンねぇ』
「……?」
『こっちの話。マスターちゃんは朝から鍛錬か? 他に人が来る様子はないけど』
静まり返った道場には、千尋の足音や衣擦れの音だけが微かに響く。
「ウチの学校の剣道部は緩いので、朝練なんてものはありません。ただ、道場を使いたいと言ったら、教頭先生が許可をくれて」
自分も朝早くに学校へ来るから、という理由で教頭は道場の鍵を毎朝開けておいてくれる。千尋は誰もいない道場で一人、竹刀を振る度に感謝の念を募らせていた。
「教頭先生も昔、剣道に打ち込んだそうで。色々と気遣ってくれるんですよね」
『人に恵まれたな、マスターちゃん』
「そうですね……他に人が来ないというのも、集中が乱されなくていい」
千尋は深呼吸を幾度か繰り返し、竹刀を構える。瞼を下ろし、色褪せてしまった記憶を呼び起こし、そして竹刀を振り抜く。
一振りごとに、色彩を取り戻すようだった。今よりも低い目線で、今よりも小さな手で、今よりも弱々しく──竹刀を振っていた記憶。
記録のように鮮明ではないけれど、暖かい──……
「ッ!?」
「おっ、よく受けたな」
「セイバー……!?」
突然、背後から振り下ろされた竹刀を受け止める千尋。勢いはなく、ただ軽く当てようとしただけなのだろうというのは分かったが、斎藤がそんな行動をとる意味が分からなかった。
勝手に実体化し、勝手に竹刀を持ち出して、「昔のより軽いんじゃない?」などと言いながら手の中で弄んでいる。
「誰かに見られたら……」
「誰も来ないって言ったのはお前だろ? それよりほら、構えろ構えろ」
「は? 急になに……ッ」
頭蓋骨でも割る気なのかと、そんなことを疑いたくなる勢いと気迫で振り下ろされる竹刀。間一髪でそれを受けた千尋は、両腕を無理矢理動かして竹刀を受け流す。
「いやね? なーんか懐かしくなっちゃってさ」
「は……、はぁ……っ?」
「聖杯戦争の前哨戦と行こうや。斎藤一の無敵流、体で覚えろ。型なんてのは、あってないようなモンだがな」
眼前のサーヴァント──剣士の気迫に圧され、千尋は利き足を半歩退る。それでも竹刀は真っ直ぐと斉藤へ向けたまま、顎を引いて見据えた。
斎藤は満足そうに頷き、言う。
「殺しゃしねぇから安心しろよ? 千尋」
◆
手が痺れて力が入らない。膝が笑ってしまい、まともに立つこともできなくなった。千尋は尻餅をつき、そのまま大の字になって寝転がる。火照った体には、床の冷たさが心地好かった。
「ふぅ……ここまでにしておくか。なかなか筋が良いんじゃないの? マスターちゃん」
斎藤に言葉を返す余裕もなく、千尋は肩で息をする。
(やっべぇ……本当に同じ人間か……?)
汗一つ浮かべていない斎藤にとっては、今のはほんの軽い打ち合いだったのだろう。それでも、自分は体力の限界を迎えて床に倒れている。サーヴァントと生身の人間という違いを抜きにしても、そもそもの練度に恐ろしい程の差があるのを感じていた。
一撃一撃が信じられないほど重いのに、瞬きする間もないほど速い。手加減に手加減を重ねてあれなのだから、本気で刀を振るった斎藤の剣技は、一体どれほどのものなのだろう。
流れる水のように決まった型を持たない技は、しかし千尋の記憶に鮮烈な色を差すようで。
「……──ふ、っはは! あははは!!」
呼吸が整えば、途端に腹の底から笑いがこみ上げてくる。
斎藤は、その夏空の様に精彩な声に思わず目を見張った。
「あーすげえ! 全っ然届かなかった! オレ結構自信あったのに、これが幕末志士かぁ!」
千尋は体を起こし、屈託のない笑みを斎藤に向けた。
「明日も教えてよ、斎藤一の剣術!」
「……!」
「父さんから教わった型と似てるし、つーか、極めたらセイバーみたいになんのかなぁ!?」
興奮した様子で、歯を見せて笑う千尋。斎藤は彼の側にしゃがみ込むと、その汗に濡れた髪をかき混ぜるようにして乱雑に撫でた。「うわ、やめろよセイバー!」と怒る姿は、年相応の少年だ。
「わぁーかったからちょっと落ち着けー? 敬語取れてるし、そんなに汗かいてんだから水飲みな」
斎藤に指摘され、無意識に気安い口調になっていたことに気づいたらしい千尋は「……あっ」と間の抜けた声を出し、気まずそうに眉を下げる。
「あー……すみません、セイバーさん……」
「ハハッ! 気にすんなよ。一ちゃんってば、堅苦しいのは苦手だからさ」
斎藤は、千尋が道場の隅に置いていたペットボトルを取りに行き、隣に胡坐をかいて座るとそれを手渡す。千尋は少し恥ずかしそうにはにかみながら「ありがとう、セイバー」と礼を述べた。
千尋の横顔をまじまじと見つめる斎藤。
英霊『斎藤一』を構成する過去。斎藤が『新選組』ではなくなり、『斎藤一』ですらなくなった後に築き上げた時間。──流派などなく、滅茶苦茶なものであるとすら自覚している自分の剣。それをある程度の型として我が子へ教えたのは、剣を教えてくれとせがまれたからだったか。それとも、自分が生きた証を遺したいと願ったからか。
斎藤からしてみれば、千尋の剣など未熟もいいところだ。先程の打ち合いも、真剣での斬り合いなら最低五十回は死んでいた。
未熟で、未完成、そんなものに、斎藤は愛おしさを覚える。
昨晩、聖杯から俄かに信じ難い事実を告げられたが、この瞬間、斎藤は千尋との確かな繋がりを感じていた。くすぐられる父性の様なものも、悪い気はしない。
斎藤は千尋の頭にぽんと手を置く。
「俺の剣を体に叩きこむのはいいんだけどな?」
「? うん」
「その前に…………一回、じいちゃんって呼んでみてくれ」
「……アンタ何言ってんだ?」
先程まで尊敬の眼差しに煌めていたはずの千尋の目が、一瞬にして据わる。斎藤が、全然まったくちっとも変な意味ではないのだと弁解する為に口を開きかけたその時、一人の生徒が道場に顔を出した。
「おーい、千尋ー……って誰!? うわ、お前汗だくじゃん! そんで誰!?」
気さくに千尋の名前を呼んだその生徒は、道場に似つかわしくない格好の斎藤に驚く。
時間も忘れて打ち合いをしていた為、他の生徒が登校し始めていることに、二人とも気づいていなかった。
霊体化し損ねた、と斉藤は内心舌を打つ。どう誤魔化そうかと千尋を窺うと、斎藤の予想に反し、特に慌てた様子もなかった。
「すっげぇ剣が強いオレのおじさん」
「おじ……っ」
「今日ちょっと稽古つけてもらってたんだよ。……あーでも勝手に学校に入れたら怒られるのかな。おじさん、念の為裏口から出てってよ」
「お……あぁ、うん……じゃあ、また後で……」
あっちにあるから、と千尋が指した方へ斎藤はとぼとぼと歩いていく。千尋の友人らしき生徒の「なんかお前のおじさん、ちょっとやつれてね? クマあるし」という言葉が、追い打ちのように斎藤の背中に突き刺さった。
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