忍之捌字

 明朝、千尋は目を覚ます。

「千尋?」

 それが自分に向けられているものだという事実に、心底驚くほど優しい声音で呼びかけられ、千尋は目をそちらへ向ける。「セイバー」と声を出そうとして、千尋は咳き込んだ。

「大丈夫か? 水を……、あー……」

 千尋の両親に姿を見られる訳にはいかないが、霊体化したままではコップに水を入れて持って来ることもできない。人知れず斎藤が拳を握ると、千尋がとある棚を指差した。それに従って棚の扉を開ければ、中に小さな冷蔵庫が入っている。中身はよく冷えたミネラルウォーターと緑茶だ。
 斎藤はミネラルウォーターが入ったペットボトルを手に取ると、起き上がろうとする千尋の背中を支え、蓋を開けてやった後に渡す。

「っはー…………、ありがとう……セイバー」
「いいのよ、礼なんて。……何もしてやれなかったんだからな」

 視線を下げる斎藤。
 千尋は、自分の手に微かな温もりが残っていることに気がついた。すぐ近くに置かれている、自分よりも大きくて硬い手を、関節をくっつけるように強く握る。

「痛ぇ!」
「何、しおらしい顔してんだよ」

 痛みを訴えながらも、手を振り払おうともしない斎藤に、千尋は八の字にした眉を寄せる。

「オレは……令呪使ってセイバーを押さえつけたのに……。出迎えて、起きるまでずっと傍にいてくれただろ。いや……それ以前に、オレを心配して声をかけ続けてくれてた。何もしてやれなかったとか言うなよ。そんなこと、全然ないんだからさ」

 ……令呪を使わざるを得ないほど真剣に、自分を止めようとしてくれたことだって、本当は嬉しかったのだ。どうしても必要な事だからと、その手を振り払いはしたけれど。

 地下室は冷え切っている。何もかもに温度が無い。
 硬い手術台も、眩しすぎるライトも、自身を見下ろす両親の目も、──誰も助けてはくれないという状況そのものも。

 だが、今回ばかりは違っていた。
 パスを通じて、千尋にだけは斎藤の声が届いていた。誰かからこれほど誠実に、心の底から身を案じてもらったのは何年振りだろう。
 何か言葉を返そうとすれば、助けを求めてしまいそうだったから。だから必死で、斎藤の声に応えないように自分を抑えていた。途中から体内の魔力が乱れ、そもそも千尋からは念話すらできなくなったというのもあったが。

 千尋は凝り固まった上半身を伸ばすと、斎藤に「今日って何曜日?」と尋ねる。

「金曜日だ」
「あー……じゃあ、やっぱり結構寝込んだなぁ。シャワー浴びたい……腹減った……」

 タイミングよく鳴る腹を擦りながら、千尋は依然として暗い表情の斎藤を見て、困った様に笑う。

「セイバーは……優しいよな。オレのこと気遣ってくれる」
「当たり前だ、……マスターなんだから。……だが勘違いしちゃいけねぇよ。本当に優しい奴なら、お前を斬ってでも止めてたさ。聖杯戦争への参加そのものをな」
「それは困る。オレは聖杯を手に入れなくちゃならないから……」

 千尋の聖杯に対する執着は大したものであると斎藤は思う。
 地下室から自室へ戻ってきた時、朦朧としながらも、聖杯を手に入れる望みを口にしていた。恐怖すら飲み込んで、聖杯戦争に賭けている。

(──それが何なのか、まだ聞き出せちゃいないんだよな)

 根源、なんて訳の分からんものじゃないだろう。斎藤はそんな確信を得ている。そうであって欲しいという切望も。

 千尋は斎藤の助けを借りて、ベッドから下りる。軽く体を動かすと、斎藤に振り返った。

「工房に行く。シャワー浴びて準備するから、セイバーは屋敷の外で待ってて。霊体化してな」
「ハイハイ、分かってますよ」
「……あ、そうだ。セイバー、沖田総司が女だったってマジ?」
「は? ……え? いや、寧ろ男として伝わってんのかよ? 沖田ちゃん」





 準備を終えた千尋は屋敷を出て、「セイバー」と斉藤に呼びかける。霊体化を解いて姿を現した斎藤は、不思議そうに目を瞬かせた。

「今日はアレ着ないの? 詰襟」
「詰襟? ……あぁ、学ランな。さすがに今日は学校休むよ。……で、セイバー」
「ん?」
「オレ、まだ本調子じゃないから、工房まで運んでくれ」
「了解。お任せあれっと」

 斎藤は千尋の背中と膝裏に手を差し入れ、軽々と持ち上げる。そして「ん?」と疑問符を頭に浮かべる千尋に構うことなく走り出した。
 人目につかないよう、屋根から屋根へと飛び移る。人間の脚力ではおおよそ到達できないような速度で駆ける斎藤。

「うおおっ! やべ、ちょっ!」
「口閉じな。舌噛んでも知らんぜ?」

 家々を越え、学校を越え、工房へ辿り着くのはあっという間だった。斎藤が「ハイ到着」と足を止めて千尋を見ると、千尋は両手で顔を覆っている。

「どうした、マスターちゃん?」
「……ねぇ! ねぇわ! これはねぇわ、セイバー!! おぶってくれりゃよかったのに! なんでお姫様抱っこ!?」
「おーおー、元気そうで何より」
「セイバー!」

 斎藤が千尋を下ろすと、千尋は肩をいからせながら工房へと入る。

 棚からカセットコンロとやかん、水の入った二リットルペットボトルを取り出し、お湯を沸かし始めた。その様子を斎藤が興味深そうに眺めていると、千尋は“不機嫌です”という態度を崩さないまま、斎藤に問う。

「セイバーはそばとうどん、どっち派?」
「僕? うーん、やっぱそばかな」
「じゃあこっちだな」

 赤いパッケージのカップ麺を取り出し、ビニールを剥いで蓋を半分ほど開け、中にかやくを入れて……と千尋は手早く準備をする。

「全部は食えないと思うから、セイバー半分食って」
「そりゃ貰えるモンは貰うけど……何これ? これがそば?」
「お湯入れて三分で天ぷらそば」
「はー……便利な世の中になったもんねぇ」

 沸騰したお湯をカップの中に規定量注ぎ、時計を確認する。秒針が三周する間、斎藤は口を閉じたカップ麺を見つめたまま黙り込んでいた。
 三分後に蓋を全て剥がせば、食欲をそそる醤油の匂いが広がる。適当な器に自分が食べる分を移し、千尋は斎藤にカップを差し出した。

「全然取ってないじゃないの。腹減ってんだろ?」
「うーん、まあ、それはそうなんだけど……いつも通り食えるようになるのは明後日くらいかなぁ……」
「…………」

 黙り込んだ斎藤を、麺が伸びると急かして千尋はそばを啜る。塩気の強い濃い味が、味蕾を痺れさせるようだ。本当は胃に優しいものを食べたほうがいいとは分かっていても、この味を求めてしまう時がある。それが今だったという訳だ。

「……うま! ん、なんだこれ、癖になりそうな感じ……」
「無性に食べたくなる時があるんだなー、これが」

 揃ってカップ麺に舌鼓を打っていると、不意に千尋の箸が止まる。

「……おい、どうした」

 一点を見つめたまま、制止する千尋。斎藤が立ち上がろうとした時、止めていたらしい息を吐き出した。

「悪い、セイバー……ご飯の邪魔した、もう大丈夫だから」
「どこが大丈夫なんだよ。誤魔化すな。……辛いなら辛い、苦しいなら苦しいと言え」

 眉間に皺を寄せながら、鋭くこちらを見つめる斎藤の目から逃げるように、千尋は顔を俯かせる。

「正直、見てられねぇよ。お前がこのまま自分を偽り続けるなら、俺はお前に協力しない」
「…………大丈夫なのは、嘘じゃない」
「大丈夫じゃねぇだろ!」

 昂る感情のまま立ち上がった斎藤は、千尋の胸倉を掴み上げる。千尋の手から落ちた割り箸が、カラカラと寂しげな音を立てて転がった。

「体弄られて、血吐いて、どこが大丈夫だってんだ!? お前をそんな風に扱う奴らの為だって聖杯戦争に参加して、命ってのはお前らが思う程軽くねぇんだよ! ……っああ、もう、この際だから言ってやる。召喚された日から思ってたことだ。お前は、このまま聖杯戦争に行けば確実に死ぬんだよ! お前みたいな奴から死んでいくんだ!」

 見通しが甘いのは平和な時代を生きているから。それだけなら、斎藤が“命のやり取り”が如何程のものか、教えてやればよかった。

 誰かの為に命を懸ける。それは立派な精神性だろう、周りから称賛されて然るべきだ。善悪や是非は個々の価値観に依るとしても、一般的に自己犠牲は美徳とされる。

 だが千尋がそんなご立派な精神を持ち合わせていないことくらい、斎藤には分かっていた。
 斎条の為ならどんな苦痛も耐えられます? 命だって斎条の為に当然費やします? ──そんなことを本気で思っているのなら、どうして工房なんてものが作られている。

 逃げ場所を自分で作り、逃げられない心を守り、時を待っている様に見えた。

「……死んだら解放されるとか、思ったことあるだろ」

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