エンターテイナー ~磯貝龍乎という男~
まだヘタミュしか見ていないのに考えてしまった、磯貝龍乎という男
私は、“表現者”という言葉をよく使う。
エンターテイナーでも演技者でもなく、わざわざこの言葉を選ぶのには、もちろん、こだわりがある。
多くの場合、私が惚れるのは、その人の“表現”で、そしてそれはただ私を楽しませるものではなく、ひとつの憧れであり目標であり、自分もそういう力を持ちそういう表現をしたいという学びも兼ねている。
ある意味、同業者の先輩のように思っているのかもしれない。
どう魅せてくるかを楽しみにしている時、きっと私はその人のことを表現者と呼ぶ。
ところが。この男は違った。
どう楽しませてくれるかが楽しみでしかたがない。
学ぼう参考にしようという理性もふっとび、ただただ楽しみでしかたがない。
これはなんと呼ぶべきだろう。
そう、エンターテイナーだ。
磯貝龍乎という人には、どうしてだか、どう魅せてくるかよりもどう楽しませてくれるかが気になってしかたがない。
龍乎さんの表現は、Performではなく、Entertainに似ていた。
龍乎さんがくれる楽しさは、FunnyでもInterestingでもなく、PleasantでAmusingだった。
演じる役と同時に、そこには生身の磯貝龍乎が存在していて、磯貝ワールドの中で役と共にただその時間を楽しませてくれる。
これまで袖を振り合うこともなかったであろう人たちが直接その場で感情を共有し合い同じ空の下で楽しむ、舞台というその場きりの小さな特別な世界。
私は映像越しであるというのに、龍乎さんを観ていると、自分もその場にいるような気がしてくる。
私もこの世界の片隅に存在していて、キャラクターたちと同じ世界で過ごしていて。と、そんな気さえしてくる。
それはきっと、龍乎さんの演技が、いつだって私たち観客ひとりのために存在しているからかもしれない、と思う。
間違いなく彼の表現の一端として存在しているはずのセリフや動き、表情、涙でさえも、彼の表現のためではなく我々観客のために存在しているように感じる。
そんな、ちょっとカッコよすぎやしないかという小さなウィンクが、ただ純粋に偽りなく提供される。
彼がスポットの下にいる全ての瞬間で。
その存在感とは真逆に繊細な手つきで。
そこに、私という観客は期待せずにはいられなくなる。
次は何だろう?というわくわくを、いつの間にかおまけのBGMとして流されている。
そうして、気がついた時にはもう、磯貝龍乎presentsの遊園地に入っているのだ。
悲しみも喜びも、恐怖も感激も、激昂も涙も静寂も。
全てを楽しんで、全てを感じていきなさい。
全てを与えて見せてあげよう。
味わうことだけがあなたの仕事です。
そんなことを言われそうだ、とふと感じたりする。
舞台に立つ龍乎さんは、私という観客に直接話しかけてくる気がする。
龍乎さんの演技は、見ていくうちに凄さが身に染みてくる。
凄さを感じさせない凄さ。
赤ちゃんのアメリカの声で、普通に歌う。
よく考えれば、30代の男性にしてはとてもとてもおかしい声の高さで、音も外さず楽しそうにハモりすらこなす。
説明もいらず、たった一言で会場全員を笑わせてしまう。それも、後に引かないその一瞬をかっさらう、嵐のような風速で過ぎ去り忘れられない笑い。
お兄ちゃんを慕う赤ちゃんから、イギリスの手を取るアメリカ、その後のイギリスの手を離すアメリカまで。それぞれにその時々を感じさせる佇まいがあり、話し方があり、どれもがちゃんと違う時代のアメリカだと分かる。
ブレイクダンスをしながら喋る。さらっと入れこまれたブレイクダンスすらまず驚きなのに、なぜ床で高速でぐるぐるしながら(説明ができない)次の瞬間にはもうあんな普通にしているのか不思議でしかない。
GWのラスト。イギリスに縋り付く手のかすかな震え、力が入っているからこそのぎこちなく硬い腕の動き、それまでのアメリカが表には出してこなかったイギリスだけへの思いが、イギリスを前にして少しずつ零れて抑えられなくなっている、名のつけられない涙を感じさせる放心に近い表情。あまりに引きずられ、圧倒された。アメリカの心に目を向けずにはいられない。アメリカの心に寄り添おうと足を向けずにはいられない。そうさせてしまうあの表現力。
目を瞑って聴く歌声だけでも感じとれる感傷的な回想、若い決意。その一瞬の切り替え。
目を開けて見れば、その瞳の動きから伝わる懐古、決心、微かな哀愁。
倉庫掃除というほんの数分の中で伝わるアメリカの心の中にある長い時と思い。そこには私が知らない時間も存在しているなと感じる。それは、アメリカというキャラクターが生きている証。
勝手に付け加えたというラップの歌詞は、確約なんてなくても希望で手を繋いで、ハチャメチャだけど「彼が言うならあるかもな」と感じさせる、磯貝龍乎というアメリカの存在、素直に受け止められる明るい優しさの包容力。
もはや磯貝龍乎では?と言いたくなるくらいことでも、動作や言葉、存在そのものがアメリカでしかなく、磯貝龍乎でいいはずの挨拶すらもアメリカだった。
アメリカというキャラクターは、ヘタミュの場合、出演しているどの国よりもある意味難しいんじゃないかと思っている。
新大陸だった頃の小さいアメリカ、イギリスが通っていた頃の若いアメリカ、独立直前の揺れるアメリカ、独立したばかりの引きずるアメリカ、独立後の大国となった一人前のアメリカ。
歴史に登場した新大陸だった時から世界の大国となる所まで、アメリカは、年月の流れの幅が特に大きいキャラクターだ。
それでいて、コミカルもシリアスも、場を乱すことも整えることも、どれもをこなせる、安心感が無くて有る、トラブルメーカーなヒーロー。
アニメのアメリカ役の小西さんが以前どこかで「ずっとアメリカを演っていたら、痩せる。めちゃくちゃ大変」と仰っていた。
アニメとミュージカルでは雰囲気が違う所もあるけれど、でも大変なエネルギッシュさで常に存在感と自由さと、その中で彼なりの芯を保っていくのはやっぱり大変そうだなと思う。同時に、難しそうだな、とも。
龍乎さんにある「何かやってくれちゃいそう」な明るい存在感と、「何とかしてくれるだろう」という絶対的な安心感は、すごくアメリカに似ている。改めて、アメリカを演じてくれて本当に良かった。
何をしでかすか分からない。
その不確定さに期待してしまうなんてことがあるのだ。
龍乎さんが舞台にあらわれたその時から、もう私は次の瞬間が楽しみでしかたがない。
次はなにをくれるだろうか。
ただただ楽しみにしてしまう。
真似しようとか、学ぼうとか、参考にしようとか、目指そうとか、そんなものは龍乎さんの前では役立たずだった。
純粋に楽しく、素直に楽しくいられる。
龍乎さんの表現の前では。
なんて、まだ私はヘタミュしか見ていないのに、ただ龍乎さんのアメリカと出会っただけなのに、不思議と何かを感じて考えてしまった。
あまりにも、すごかった。見れば見るほどに、すごい人だった。
なんなのだ…あの表現力は……!?
あの、とてつもない吸引力は……!?
もっと色々、磯貝龍乎ワールドを見て見ようと思う。
もしかしたら、その時はまた新たな個人的磯貝龍乎論が生まれているかもしれない。
いつだって、期待通り。
それもひとつのプロの形。
いつだって、裏切ってくる。それは唯一無二。
かっこいいな。
おまけ
先日、廣瀬さんのYouTubeであった鍋配信を見た時に、すごく好きだなと思った。
推しとか尊敬とか憧れとかじゃない。
ただ、「あ、なんかいいな」と思った。
なんだろうか。
こんなお兄ちゃんかこんな友人かこんな先輩がほしいのかもしれない。
言うまでもなく、あの雰囲気は廣瀬さんといる龍乎さんだからで、廣瀬さんと龍乎さんだからだとは思うんだけれど、でも、すごく落ち着く安心感だった。
良い人…とはちょっと違う感じで。
(いや、好い人ではあるんだけど…)
素敵な人…もなんか違くて。
(いや、素敵なんだけど…)
かっこいい人…は向きが違くて。
(いや、かっこいいんだけど…)
なんと言ったらいいのか分からないんだけど、ただなんか、好きな人だなというか。すごく好きになっちゃうなっていうか。
磯貝龍乎ってどんな人?と言われたら、「うーん…上手く言えないけど、たぶん(あなたも)好きだよ」って誰もに言いたくなりそう。
なんか、すごく安心する人。
2024/02/09