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或る日の朝、珍らしく早起きして床を片づけてゐる所へ、思ひがけなく芥川君が跳び込んできた。此處で「跳び込む」といふ語を使つたのは、眞にそれが文字通りであつたからだ。實際その朝、彼は疾風のやうに訪ねてきて、いきなり二階の梯子を驅け登つた。いつも、あれほど禮儀正しく、應接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限つて取次ぎの案内も待たず、いきなりづかづかと私の書齋に蹈み込んできた。
自分はいささか不審に思つた。平常の紳士的な芥川君とは、全で態度がちがつてゐる。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起つたかと思つた。
「床の中で、今、床の中で君の詩を讀んで來たのだ。」
私の顏を見るとすぐ、挨拶もしない中に芥川君が話しかけた。それから氣がついて言ひわけした。
「いや失敬、僕は寢卷をきてゐるんだ。」
成程、見ると寢卷をきてゐる。それから面喰つてゐる私に對して、ずんずん次のやうなことを話し出した。この朝、彼はいつもの通り寢床に居て、枕元に積んである郵便物に目を通した。その中に詩話會から送つてくる「日本詩人」といふ詩の雜誌があつた、始めから一通り讀んで行く中に、私の「郷土望景詩」といふ小曲に來た。それは私の故郷の景物を歌つたもので、鬱憤と怨恨とにみちた感激調の數篇を寄せたものであつたが、彼がその詩を讀んで行く中に、やみがたい悲痛の感動が湧きあがつてきて、心緒の興奮を押へることができなくなつた。そこで勃然として床を蹴り、一直線に私の所へ飛んで來たのだといふ。さう語つたあとで、顏も洗はず衣服も換へず、朝寢姿で訪ねたことの非禮を謝罪した。
この感激にみちた話は、私を非常に悦ばした。自分のつまらない作品が、芥川君の如きやかましやの嚴正批評家に對して、それほどの實感的興奮をあたへたといふことは、たしかに非常の重大事でなければならない。私は感激して悦んだ。けれども同時に何かしら腑に落ちない妙な疑問が、別に新しく心の底にきざしてきた。
(中略)
この日の感激に燃えた芥川君は、平常の鑑賞的な美學者ではなく、そんな批判的の態度を忘れてしまつた所の、眞の「詩に溺れてゐる詩人」であつた。自分は彼の眼の中に、かつて知らない詩人的の情熱を見た。そして或る解決のできない疑問が、この不思議な人物について起つて來た。それはずつと後々までも、彼の自殺の直前までも、遂によく解くことのできなかつた、或る恐ろしい意味をもつた「神祕の謎」であつた。
引用:青空文庫 より『芥川龍之介の死』萩原朔太郎