音色にのせて−5


上鳴に演奏してくれ、と頼まれ、奏弥はどうしようか逡巡した。もう弾きたくない、弾いてはいけないという気持ちと、どうしても弾きたいという相反する気持ちが同時に存在するのだ。
しかし、上鳴は軽く笑う。


「だーいじょうぶだって!なっ?」


中学のときからチャラいというか、浮ついたヤツではあったけれど、芯の通ったヤツだった。だから、雄英に受かってヒーローをやっている。そんな上鳴だからだろうか、奏弥は、演奏してもいいかという気持ちになった。
しかし、自分が弾いて本当に大丈夫なのかという気持ちは厳然とある。手が、震える。


「…でも、俺……」

「怖い?」


上鳴に聞かれ、奏弥は頷いた。傷つけるのが怖い。自分が何よりも愛して、自分そのものである大事な大事な音楽で人を傷つけるのが、あまりにも怖かった。


「大丈夫だから、弾いていいんだぜ奏弥」

「…、でも…」

「奏弥の音楽は、そんな怖いもんでも、危ないもんでもねぇ。もっと、優しいもんだ。だから大丈夫」


ハッと顔を上げると、優し気に上鳴が微笑んでいた。自分の音楽が優しいものだ、と言って屈託なく笑う上鳴が、奏弥の恐怖を溶かした。


「……俺、弾きたい……また、弾きたい…!」

「おう、俺も聴きたい」


涙が出そうなほど、胸に広がる安心感。しかしそれをぐっと我慢して、奏弥は立ち上がった。
上鳴を連れて防音室に入ると、グランドピアノの前に座る。


「…ほんとは、練習曲とかから始めるべきだけど…今日は、いっか」

「いんじゃね、任せる」


奏弥は頷くと、いよいよ鍵盤の上に指を置いた。肌に吸いつくような感触は、まるで母と一緒にいるかのようだった。ピアノが、呼んでいるような気がした。
ずっと放っておいてごめん、お待たせ。そう心の中で言ってから、奏弥は指を動かした。

エリック・サティ作曲、ジュトゥヴ。CMなどでもよく使われる名曲だ。
ロマンティックな前奏に続いて始まるワルツ調の静かで愛に満ちたメロディ。ワルツはピアノでは左手によってのみリズムを取ることが多いが、この曲は低音をオクターブで弾く際に左手を大きく使うことや、メロディラインが2拍目と3拍目の音に近いため、右手でメロディとリズム和音の両方を奏でるというトリッキーな動きをする。実は曲のわりに結構忙しいのだ。


「あ、俺これ知ってる」

「有名だからね。この人はほかに、ジムノペディとかピカデリーマーチとかあるよ」


そう口で言いながら、右手のメロディーがオクターブになる。親指と小指でオクターブ違いの同じ音を弾きながら、人差し指と中指で和音のリズムを弾き続ける。
第二部に行く前の盛り上がりで終わって指を離すと、上鳴はさっそく拍手をしてくれた。


「すげぇオシャレな曲だよな」

「うん、でもサティは頭おかしい人でおなじみだよ。いきなりラの音の重さ測ってめっちゃ重いとか言うし、あと、『ナマコの胎児』っていう狂気の曲がある」

「お、おう…」


ピカソと仲が良かったという噂があるので、変態は変態と仲が良くなるということだろう。
続いて、奏弥は手の動きを速める運動をしておこうと、ショパンのエチュード作品25の9番、いわゆる蝶々のエチュードを選んだ。難易度は有名なショパンの『英雄ポロネーズ』を上回るとされる。右手の動きが狂っていることで知られていた。弾き方によっては1分以内に終わるが、右手も左手もとんでもない動き方をするのだ。

ただ、聴いている分には非常に軽快なリズムと明るい曲調で聴きやすい。上鳴もリズムに乗って楽し気にしていた。人によっては汗をかくほどの難しさだ。


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