風と心の鍵−3
さすがにあそこまでやられて嫌いにならない人間などいない、そう思っていたのは甘かったらしい。
「先輩!こんにちは!」
「……は?」
翌日、相変わらずの晴天に屋上へやって来たイナサに、希糸は咥えていた煙草を落としかけた。とりあえず指に煙草を持ってこちらにやってくるイナサを見上げる。
「今日もいい天気っスね!!」
「いや…お前の頭は空っぽか?」
「がはは、よく言われるんスよねそれ!!」
あっけらかんとしたイナサの態度に、希糸は呆れかえる。あれほど無礼なことを言われた翌日に笑顔で会いに来るなど、神経がおかしいのではないだろうか。
「俺は先輩と仲良くなりたいんス!いろいろ知りたいし!」
「俺はそうじゃねぇっつったよな」
「でも俺は先輩のこと好きなんで!諦めなんないっス!!」
「………え、」
思わずぽかんとしてしまうと、イナサは照れるでもなくいつもの笑顔で「昨日より暑いっスね」とのたまっている。希糸の耳に聞き間違えがなければ、こいつは好きだと言ってきた。
「…好きって」
「あ、もちろん恋人になりたい方の好きっスよ!」
「…バカで頭空っぽでドМ?三重苦かよ」
これだけ冷淡に扱う相手を好きになるなど、同性とかそういうこと以前にドン引きである。希糸がうわ、と思っていると、イナサはまたも豪快に笑う。
「ドМではないっス!そうじゃなくて、鬱陶しいと思いながら相手してくれる優しさとか、勉強してたり携帯灰皿持ってたりする変な真面目さとか、なんか色々好きっス!」
「意味分かんねぇ…」
いつも意味が分からないと思っていたが、これほどまで理解に苦しむこともそうない。希糸はため息をついてフェンスにもたれる。
イナサの存在が、もう希糸には苦しかった。
***
夕方、希糸は繁華街で予定のあった男と用事を終えて分かれた。場所はラブホテルの前、男はスーツ姿の中年の男。
早い話、そういう金稼ぎだ。
今回は金払いが良い客だったようで、3万円だった。昨日と合わせて5万の収入だ。そろそろ切れそうな煙草を買うとして、あとは、と考えていると、聞き慣れてしまった声がかけられた。
「…先輩、今の」
「……なんでいんだよ」
「帰り道、こっち近道なんで…」
呆然と立っているのはイナサだった。ここは繁華街でもそういう場所、そろそろ時間的に賑わいだす頃だ。そこで男と別れて財布を確認していたのだ、頭が空っぽと言われるイナサであっても理解できるだろう。
「何、してたんスか」
「見りゃ分かるだろ」
「…、そういうの、良くない、と思い、マス」
「はぁ?」
イナサは言いづらそうにする。目線を合わせない。引いたわけではなさそうで、どうすればいいのか分からないのだろう。口調の硬さは、言い淀んでいるからだ。
ちょうどいい、と希糸は思い立つ。こいつがこれ以上希糸に近寄らなくなる決定打にしようと決めた。
「お前、このあと予定は」
「え、特には…」
「じゃあ俺ん家来い。話してやるよ」
「ほんとですか!」
パッと顔を輝かせる。今目の前で起きたことを忘れたわけでもないだろうに、それでも嬉しさが先行したのだろう。もしかしたら事情があるのかも、なんて思っているのかもしれない。
なんでそんなヤツが自分のことを、と思わずにはいられなかった。
希糸の家は繁華街からそう遠くないところにある大きな家だ。地域でも有名な資産家の家である。
イナサは驚いたように見上げていた。この辺りに住んでいる者なら誰でも知っているからだろう。
「今日親御さんは…」
「土日しか帰らねぇ」
平日はそれぞれ職場の近くに所有するマンションの一室にいる。この家に形式的に帰ってくるのは土日だけだ。
門を開けて、庭を横切り玄関を開く。中にイナサを上げると、自室の場所を告げて先に向かわせた。希糸は冷蔵庫から自分の分のペットボトルだけ取り出して、一口それを飲んでから自室に上がった。