京都不浄王編/後編−13
「もう、終いやな」
その声に燐はバッと振り向いた。
胞子の大きな塊の上に乗っているため、岩場にいる勝呂を見下ろす格好だ。その勝呂は、完全に諦めたように燐を見上げた。
「俺の結界が持っとる内に、お前は逃げや!逃げて、今から少しでも人を避難さすんや」
燐は目を見開いて動きを止める。まさか勝呂からそのような言葉を聞くとは思っていなかったからだ。
勝呂は本気なようで、燐を急かす。
「はよ行きぃ…1分1秒も惜しいわ」
「……っ、」
「行け!!!」
ついに勝呂が怒鳴ると、燐は一瞬強く唇を噛み締めてから、それをゆっくりと開く。そうして平常心を保つように、息を吐いて喋り始める。
「…あー、あれなんだっけ…あぁそうだ!京都タワーだ!」
その次の瞬間には、びし、と人さし指を突き付けていつもの強気な笑みを浮かべる。何も考えていない馬鹿そうなものに見えて、本当に馬鹿なことを言っているときも侭あるが、実はしっかりと考えている。
「俺京都タワー上りてぇんだ!明日お前案内してくれ!」
両腕を広げて、明るい笑みで明るく言う。パンフレットでもまじまじと見ていた京都タワー。本気で上りたいのであろうことは分かる。
「地元だし詳しいだろ?タワーなのに風呂あるらしーじゃん!すげー気になる!皆も誘ったら来るかな!?」
勝呂は唖然と、だが少し泣きそうに、楽しげに喋る燐を見上げる。燐は先程までの馬鹿っぽい笑顔から、どこか大人びた、不敵そうながらも優しさと強さの滲む笑みを浮かべた。
「なので京都は無事じゃねーと、正直困る。皆が無事じゃねーと、俺は困る」
そう言って、燐は強い決意を宿した瞳で勝呂を見た。射抜くようなそれは、やはり燐特有の、底抜けの優しさも持っていた。
「勝って帰るんだ」
「な……んで………」
しんみりとした空気のようになったが、勝呂は呆気に取られていたところから回復し開口一番に突っ込む。
「よりによって京都タワーやねん!!」
「え!?」
「いっぺんも上ったことないわ!ちいと恥ずかし思うとるくらいやし!」
「マジで!?」
「京都他に名所ぎょーさんあるやろ!?」
「俺寺とかあんまわかんねーし、むしろオシャレスポットかと…」
本気でそう思っていたらしい燐に、笑いが込み上げてくるのを抑えきれず、勝呂は珍しく大きく笑い出す。
「あっはっはっはっは!!くっ、くく、」
「す、勝呂さん…?どったの…?」
一頻り笑うと、勝呂は脱力して空を見上げる。先程から振りだした雨は強くなってきており、その雨粒が顔を打った。
「あー……もうええわ……どうでもええわ!お前のそのカラ元気に乗っかったるわ」
そして、普段、さらには京都に来てからずっと寄せていた眉間の皺がなくなり、力の抜けた笑顔で燐を見上げる。
「友達やしな。お前を信じる」
「っ!!」
そう言うと、勝呂は二重の構えを解いた。途端に胞子が勝呂へと群がってくる。
それを見て燐は鞘に手をかけて自問する。
自分は何のために生まれてきたのか。
何のために、助けられたのか。
その答えは、言葉でなくても、もう心の中にあるような気がした。
そして、青い炎が勢いよく噴き出す。
そこには、剣を抜いた燐の姿があった。
***
もう深夜も明け方となった頃、朝祇たちは自宅の窓から結界の向こう、不浄王の方角をひたすら見ることしかできなかった。結界を張る体力で一杯で、もう動けないのだ。
黄龍から状況を聞いているが、胞子嚢の破裂はすでに起きているという知らせに気が気でなかった。
そんなとき、廉造がぽつりと話し始めた。ともすれば眠ってしまいそうだったため、助かる。
「あんな、さっき山道で、俺、一回子猫さん見捨ててもうてん」
「……俺が着く前?」
「そっ。胞子で塞がれとったさかい、諦めて逃げよて。子猫さんは逃げたら明陀に顔向けできひんて、まぁ孤児として明陀宗に育てられてんさかい分からんでもないけど」
どうやら朝祇が着く前、二人は山道で胞子に塞がれてどうするか口論になったらしい。増殖する胞子に逃げることを提案した廉造に、子猫丸は皆が戦う中でよくそんなことを言えたものだと怒鳴ったのだそうだ。
「せやけど、死んだらそれまでやんか。命あってこそやろ。聞いてくれへんさかい、俺は一人で逃げたんや。明陀のため坊のため、そないなめんどいこともう懲りごりやって。……でも、逃げられんかった。そぉやって踏ん切りつけられてたら、楽やってんけどなぁ」
自嘲して笑う廉造は、やはりずっと人生をついて回ってきた明陀宗のしがらみに、ついに一度は背を向けた。しかし、そう割りきることができなかったのだ。勝呂や子猫丸は確かに守らねばならない対象だったが、それだけの存在でもないのである。
「……いいんだよ、そうやって迷って。何度だって言うけど、俺も一緒に迷うし、廉造が決めた道を一緒に歩くから」
「…、ありがとぉな、朝祇」
そう話したところで、洛北の方の空気が揺らいだのが分かった。力の塊が消失したような感じと、何かが漏れ出してくるような感覚だ。黄龍が憑依してそういうことが分かりやすくなったのかもしれない。
『迦楼羅の結界呪が解かれた。瘴気がこちらに下りてくるぞ』
「いよいよ結界を壊せないな」
「ひょっとして、坊の結界が壊れたん?」
「そうらしい。何があったんだ…」
術者が触地印を保てなくなる状況になったということだ。いったい何が勝呂に起きたのか。
すると、廉造が壁に立て掛けていた錫杖から声が聞こえてきた。先端は赤い炎に包まれているものの、何かに燃え移ることはない。
『不甲斐ない人間どもめ』
「え、錫杖が喋った」
「ちゃうねん、おとんたちが呼び出した烏枢沙摩(ウチシュマー)が僧正血統の錫杖に宿っとんねん」
「烏枢沙摩……ひょっとして、」
烏枢沙摩は不動に連なる仏教系の高位の悪魔だ。不浄王と敵対しており、火天(アグニ)とも呼ばれる火の悪魔でもある。
そして、燐が使っている魔剣・倶利伽羅は不動に連なる悪魔たちを憑依させて使うものだ。これは降魔術士であった先祖がしっかりと記録していた。
(烏枢沙摩は燐に力を貸す気なんじゃ……?)
『その読みは当たっていたようだ。サタンの息子が倶利伽羅に烏枢沙摩を憑依させた。あとは火生三昧で焼き払うだけだろう』
その言葉通り、それから数分後に洛北の山あいから猛烈な青い光が輝き、まん中から青い炎が天高く聳え上がった。山ひとつを飲み込んだかのような強い光は、恐らく文字通り焼き払ったはずだ。
燐は不浄王と人々とをちゃんと燃やし分けることはできたのだろうか。そもそも不浄王は倒せたのだろうか。
不安が燻る中、それをかき消すように夜空を朝日が切り裂く。天鵞絨色の空は朝焼けを始めようとする明るさになっている。ついに長い長い夜が明けたのだ。
『……不浄王は、倒された』
「……そっ、か、良かった……」
そして黄龍は短く、そう報告してくれた。本当に戦いは終わったらしい。離れた場所にいて少し呆気なく感じないでもなかったが、瘴気が街に流れるのを食い止められた。
あとは皆の無事を確認するだけだ。
「……終わったって、廉造。見に行こう」
「あー……ホンマか、良かったぁ……」
五神の守り地を解き、聳弧たちを帰す。麒麟だけを呼んで来てもらい、乗せていってもらうことにした。