海の悪魔−6


翌朝、朝祇は廉造たちに起こされて海へと向かった。「またあいつや」と言う廉造に、何のことか分からないまま寝ぼけ眼で堤防を上れば、眼前に広がる海の異様な姿に目が急速に覚めた。


「うわ、なんだこれ…黒潮って色ついてなかったよな、赤潮と違って」

「昨日と同じだ、クラーケンの墨に違いねぇ」


青々としていた海は、沖合が真っ黒に染まっていた。まさに墨のような色だ。昨晩、椿が話してくれたようなノルウェー博物誌の記述と同じように、一帯の海を染め上げるほどの量を吐けるサイズということを意味している。


「あの子ぉも見とるんやろうな…」

「…、私見てくる!」


あの洋平も見ているはず。それに思い当たった出雲はそう言って堤防の階段を駆け降りた。燐たちが呼び止めるが、出雲は軽く振り返って睨み付けてくる。


「なによ、一応助けられたんだから、当然でしょ!」


反論を聞く気もないようで、出雲はそのまま港の方へ走っていった。突然見せた積極的な姿に、3人揃って呆気に取られる。


「行ってもうたわ…」

「まぁ…神木さんがあぁ言うなら、俺らは待つしかないだろ」


そのうち連絡を取って、洋平が何か仕出かさないように見張る役割を交代すればいい。朝祇の言葉に従って、燐と廉造も民宿へと戻った。



***



事が起こったのは、夕方だった。
出雲は結局夕方まで交代しようとはせず、ついに日が傾いた。そんなときに、オレンジ色の太陽を背に、沖合で巨大なシルエットが立ち上がったのだ。
ザァッという大量の海水が動く水音と甲高い鳴き声に、2階の男子部屋にいた朝祇たちは急いで窓に駆け寄り、その姿を目視した。


「出たー!!」


まるで幽霊のような反応で叫んだ燐と廉造はすぐに立ち上がる。当然、朝祇もだ。候補生とはいえ祓魔師の端くれ、無視などしない。


3人で民宿を飛び出して港まで走ってくると、すでにクラーケンは湾内に入って最後の防波堤の内側に入ってきていた。海へと突き出す細い埠頭を進むと、間近にクラーケンの巨大が迫る。


「でか…!?こんなんありかよ!」

思ったのよりも15倍くらいでかい。しかも足元から海面に見えているため、かなり浅瀬へ来ているのが見てとれた。


「悪魔が来りて墨を吹く…!」


廉造が有名な長編小説シリーズのタイトルをもじって何やら言っている。動揺しつつもそれくらいの余裕はあるようだ。


「いいからお経お経!」

「お経やない!詠唱や!って、倒す気かいな!!」

「ったり前だろ!」


燐は廉造に詠唱するよう言った。海の悪魔の致死節はエペソ人への手紙1章18節だと、昨晩椿から聞いている。さすがに詠唱騎士を目指す廉造はそれくらい覚えていたようで、クラーケン側の埠頭の柵に足をかけ、左手を顔の前で経典を読むように掲げた。仏教系らしいスタイルだ。


「あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように、そして、あなたがたが神に召されていただいている望みがどんなものであるか…」

詠唱を続けるが、正しい致死節であれば聞くうちに苦しみの声が聞こえるはずである。しかし、それがない。廉造はチラチラとクラーケンを窺うが、何も変化はなかった。


「…聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、って、全然効いてへんやんけ!!ひょっとしてイカって聴覚ないんちゃう!?」


一応18節を詠唱しきった廉造だが、やはりクラーケンはまったく変わらず港へ近付いている。サイズが大きいため近く感じるが、まだ埠頭からクラーケンまで100メートル近く離れている。たとえ聴覚があっても聞こえていない可能性は高い。
ちなみに、イカは嗅覚と視覚によって認識を行うそうだ。


「大丈夫だって!あんなにでっかい耳、ついてるじゃん!!」


しかし、燐は強気でクラーケンのヒレを指差す。確かにあれが耳だと思っていた時期はあった。あったが、


「いや…あれがヒレやって子供かて知ってんで!?」


廉造の言う通り、幼い頃の話だ。高校生になってまでさすがにその間違いはない。


「ヒレ!?マジで!?」


間違えられたからかなんなのか、クラーケンは再び鳴き声らしきものを上げて足を振りあげた。まっすぐこちらに振り下ろされるそれに、朝祇は咄嗟に陸側へ走り出す。


「あいつらなんで進行方向に行くんだよ…っ!」


一方の廉造と燐は横ではなく足に沿って縦に走り、埠頭の柵を乗り越えて砂浜を走った。横に逃げればすぐだというのに。
足は埠頭を真っ二つに叩き割り、砂埃を舞わせる。吹き飛んだ瓦礫が舞うのを見た朝祇は、すぐ印章紙を取りだし、指を噛んで血を垂らす。


「黄土が瑞獣、毛蟲が長、冀うを聞くは其の礼徳の大なる故ならずや」


いつもより早口で言い、麒麟が紙から光と共に現れるや否や叫ぶ。


「廉造と奥村を頼む!」

麒麟はすぐに空中を駆け出した。寸分の狂いなく直線に動く麒麟は、一瞬で廉造と燐を足元の砂ごと浮かせ、少し離れた場所に移した。瞬間、瓦礫が降り注ぐ。


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