2進数のアイ−4
そのまま試作のプログラムをインストールしてみたのだが、結果は変わらず。少年に励まされ、まさか被験体に励まされるとは、と苦笑した。しかし、柔造がもう少年を被験体などと思っていないのも確かだった。
確かに基本はプログラムだが、柔造との学習の中で成長させていった部分は確かにこの少年オリジナルのものなのだ。
「…やっぱ、そろそろ君の固有名詞必要とちゃうか?」
「固有名詞?AIに?」
AI本人が疑問に思っている。やはりどんなに人間臭くても、合理的でない提案には首を傾げてしまう。そういったことで計れないものが人間にはあって、その代表こそが愛なのだろう。愛がなければ人間味に欠ける、という上司の言葉はまさにその通りだ。
ふと、そこで柔造は昔のことを思い出した。祖父が、戦後に矛造を亡くした悲しみの中で語っていたこと。
祖父の様子を見に東京へ行き、立川の祖父のアパートで聞いたものだ。
「柔造、愛とは双方向的なもんや。どちらか一方的に発露するんは恋や情の範疇やけどな、愛は愛し合うもんなんや」
「な、なんなんいきなり…」
「せやからな、前に言うとった、愛を知るAIってもんやって、AIだけで何とかなるものやないんや」
「…プログラムだけじゃあかんの」
「おん。ええか、柔造。じいちゃんの作ったサイアスも、ホンマは……」
そうだ、祖父は確かにそう言っていた。愛とは、それを一方的に向けるものではない。愛したい、そして愛されたいものであり、そんな2人以上の人間の間で双方向的に働くものなのだ。
つまりは、まず柔造自身がこの少年を愛し、少年が柔造を愛することが必要だ。それは恋愛というよりは家族愛に近いだろう。
少年を弟のように感じ始めていた柔造には、苦でなかった。
急に考え込んだ柔造に戸惑う少年を見て、柔造はふ、と頬笑む。ようやく反応を示した柔造に少年もホッとしていた。可愛いところもあるものだ。
愛するにはやはり、名前が必要である。この少年だけを示す固有名詞だ。あのとき祖父が教えてくれたのは、サイアスの名前。名前は一種のコードとして作用するだろうとも言っていた。きちんとそこに、愛があれば。
「…呼んでええか、君の名前」
「へ?サイアスって?もしくはプランセブン?」
「ちゃうわ。君の、君自身の名前や」
「そんなの何の意味が…?」
本当に分からない、というようにする少年を、柔造はそっと抱き締めた。驚いたのか、少年はぴくりと震える。
「え、柔造さ、」
「―――千秋、」
「っ!!!」
その名前を呼んだ瞬間、少年、千秋は目を見開いた。祖父から聞いたこの名前には、特定のプログラムを起動するコードの役割がある。
「っ、プログラムが…ホンマに…」
まさに呼んだ途端、パソコンの画面に表示されていたプログラムが、どんどん書き変わっていった。あっという間にそれは終わると、今度はベッドヘッドのホログラム画面が起動する。
"only SAIAS permitted"と画面上部に記されたもので、それがSAIASにのみ許された権限画面だと分かる。普通は国家レベルの案件でしか現れないはずだ。
"upgrade to a new program"という文の下には、YesとNoのボタン。千秋は柔造の腕の中で、不安そうにそれを見つめた。
「ど、うしよ…いいのかな、内閣府や総務省やOSMの認証受けてないのに…」
「…この部屋、超法規的実験室やさかい、ええんとちゃう?」
そう軽く言った柔造に頷いて、千秋はYesを押した。
すると周囲のパソコンが一斉に稼働音を鳴らし始めた。もとのプログラムはそう重いものではなかったが、名前を呼んだ瞬間に書き変わったバージョンはひどく重いようだった。必死そうな機械たちの音の中、抱き締めたままの千秋を見やる。
視線に気付いたのか、千秋もこちらを見上げた。そこで更新が終わり、機械たちが一息ついたように音を止める。それと同時に、千秋は突然顔を赤らめた。
「っ、近い!!」
「へっ、どないしたん…?」
赤くなったのを見て、まず熱が籠ったかと思ったのは仕事病だ。しかし鈍くはない柔造、すぐにその赤さの正体に気付いた。
(あー、愛てそっちかい…)
これは完全に、千秋の方はそういう意味での愛を認識しているようだった。柔造としては確かにそういうつもりではなかったが、しかし。
「千秋、どないした?」
「う、うるさ、なんだこれぇ…!」
名前など不必要だ、とばかりの態度から一転、固有の名前を呼んでやるだけで照れてしまって顔を赤くし、それでも柔造に頭を撫でられると嬉しいのか表情を緩めるのは、可愛らしいものだった。