2進数のアイ−6
千秋は、初めて目にする自然に思わず息をついた。自分がもとは並列されたスパコンの集合体でしかないからか、生体端末とも言うべきこの体を通して感じる生命の集まりに感嘆したのだ。
広大な昭和記念公園は、木、草、花、虫、そういった多様な生命に溢れていた。足元の土が、目の前の池が、肌に感じる風が、これらの生命を育んでいる。その合間を、親子連れや老人、近隣の学生などが歩いている。彼らにもまた、生活がある。
隣を歩く柔造も生きていて、これまでの人生があって、これからを生きていく。千秋は、体は確かに生きているが、では果たして脳はどうなのだろう。分からない。まぁ、死んではいない。
2人は花壇が整備されたところへやって来た。バラが咲いていて、色取り取りの絨緞のようだった。
「うわ、すごいね」
「せやなぁ」
柔造は朗らかに笑う。普段の研究に打ち込む姿より、柔らかで肩の荷が降りたような気軽さがあった。そんな姿に、また心臓が勝手に動悸を速める。早く愛とやらの正体を突き止めなければ。
そう思いながら花壇に近付き、そっと触れてみる。固くて、ひんやりとしていた。ざらついているのも分かる。皮膚を通して感覚を脳が受容している。
棘を軽く叩くように触れてみると、途端に痛みが走った。鋭いその感覚に、反射で手を引っ込めてしまう。
「あ、こら、なにやっとんねんアホ」
AIをアホ呼ばわりするのもなかなかない。柔造は呆れたように千秋の指を確かめた。柔造に触れられる手首が、熱い。
痛みも、熱さも、この体を端末とするようになって初めて知った感覚だった。スパコンの中では知り得なかった、実感である。
「貸してみぃ」
柔造はそう言うと、血を流す千秋の指をぱく、と口に含んだ。その瞬間、指だけでなく、全身の血が沸騰したように騒いだ。
「なっ、!なにして、」
「ひょーおくや」
くわえたまま喋られ、顔に熱が集中する。これは、恥ずかしさを感じているときの生理反応とみていいだろう。
「30億近い細菌が蠢く人体の咥内に消毒作用は確認されてない!」
「っ、言い方…」
ようやく口を離し、ぱっと手を戻すと柔造はまた呆れていた。呆れたいのはこっちだ。
「顔、真っ赤やで?満更でもないやろ」
「っ!?んなわけないでしょ!!」
「はは、かいらしなぁ!」
柔造は笑って千秋の頭を撫でる。やはり副交感神経の働きで昂っていた感情反応が落ち着いていった。本当に、愛とは厄介な代物だ。
それから、2人で近くのベンチに座った。公園内を巡回する警備ロボットから絆創膏をもらって貼っておき、そのついでに休憩している。
園内はのどかな様子で、楽しげに歩く人々の姿だけがあった。つい数年前まで、経済が半壊し深刻な食糧危機に陥っていたとは思えない。
「…なんでこんな平和なんだろうね」
「…そら、お前のおかげやろ」
「それはシステムの話でしょ?俺が言いたいのは…あれだけの戦争を引き起こしたのも、こうやって笑って暮らしているのも、同じ人間なのになんで違うのかなって」
隣の柔造が息を飲む。兄を戦争で亡くしていることは、SAIASのマイナンバーのデータで知っていた。
「…愛にしたってそう。人間は、あまりに不合理な存在だ」
愛は解析不能な不可解なものだが、人類にとって最も大事なものだと人は言う。しかし、その割には先の大戦で直接的に1500万人が死亡し、餓死などで間接的には1億人が亡くなった。
「人類は行動に一貫性がないよ」
「…それは、確かにそうやなぁ。せやけど、人はそういう不完全な生き物やっちゅうことでもある。やから愛なんてモンを人は慈しむことができんねや」
「不完全だから…」
「千秋かて、べつに完全な存在やない。せやからいつか、愛がどんなモンか分かると思うで」
そういうものなのだろうか。千秋は、やはりAIだから、そこには至れないのではないか、と漠然と思うのだった。