2進数のアイ−9


壁の全面が頑丈なガラスになっている、大きな部屋。部屋は巨大なスパコンがチカチカと光を明滅させながら稼働し、延々と部屋の中に並列されている。
その前に立って、千秋は頭にコードがたくさんついたヘルメットを被っていた。

目の前のガラスの向こうには、大勢の研究員がずらりと並んだホログラム画面の前で操作をしていた。白を基調とした部屋で、研究員が慌ただしい。反対にこちら側には、黒いスパコンと黒い壁、全体的に黒かった。そして、人は誰もいない。

ガラスはガラス内部にホログラムを投影できるようになっており、そのものが画面のようだ。こちらからも見えるよう向こう側とは反転したものが見えていた。
大きく書かれた"backup protocol"の字と、その進捗率だろう99.98%という数字。もう間もなく、すべての権限が一時的に甲府に移る。

ガラスの向こうの部屋には、柔造の姿もあった。本当に爆弾を爆発させる気だろうか。
だが、千秋には判断できない。現に社会は千秋のせいで混乱し、実害が出ている。どう考えても、千秋の人格など優先されるに足るものではない。AIはAIらしく、人のために。人の幸せのために存在するべきなのだ。

それでも、と千秋は柔造を見つめる。ガラスの画面の数字は100%に達して、移行プロトコルは完了した。あとは三葉電機の責任者がアンインストールを実行するだけ。
柔造の姿を見たら、触れたくなってしまう。声を聞かせて欲しくなってしまう。

こんな気持ちを、社会に与える影響がこれほどにも明らかなのに感じてしまうなんて、やはり愛なんて合理的ではない、意味の分からないものだ。
でも、その意味なんて知らなくていいのだろう。非合理的なままで、不完全なままでいいのだろう。それが、愛なのだ。それを大事にできるのが、人間なのだ。
だから、せめて最後にもっと近くに、いて欲しかった。



『それでは、アンインストールを開始します。プランセブン、すまない』


男の声がスピーカーから聞こえてくる。向こうの音声がすべてこちらに届けられるらしい。謝ってくれた心優しい責任者の男に、これをさせるのが申し訳ない。
アンインストールが、もう、始まる。目を閉じようとした、その瞬間。


突然、パァン!という爆発音が、スピーカーを通さずとも響き渡った。驚いて部屋を見てみると、研究員たちが悲鳴を上げて踞り、アンインストール画面が消える。

柔造は煙の中、近くの研究員を蹴り倒してホログラムを弄った。この爆発だ、すぐに警備員がやって来るだろう。そうすれば、柔造はこの場で射殺される。
すると目の前のガラスに、柔造が送りつけた画面が現れた。SAIAS本体にアクセス権限が復旧したという文字列だ。ついで、新たな画面が現れる。
その向こうでは、柔造が抵抗する研究員たちと戦っていた。

"only SAIAS permitted"という、高度な権限の画面。そこで表示されたものに驚き、やはり躊躇われた。なぜなら自分は―――。


『千秋ッ!!!』


突然、柔造の怒鳴り声が聞こえてくる。ガラスの向こうに目をやると、柔造がしかと千秋を見据えていた。意思の強い瞳に、吸い寄せられる。



『"千秋は"どうしたいんや!!』

「俺、が……?」


自分が、どうしたいのか。そんなこと考えたこともなかった。自我なんて求められていなかったのだから。しかし、柔造が育ててくれた自我は、千秋の"I"は、きちんと主張していた。それに耳を傾けても、いいのだろうか。自分が、選んでもいいのだろうか。


『自分自身で選ぶんや!自分自身のために!!』

「柔造、さん…俺、」


名前を呼んでくれた。温もりを与えてくれた。痛みを癒してくれた。世界を見せてくれた。
そして、愛を教えてくれた。



「"俺は"、柔造さんといたい!!!」

『…っ!よう言ったッ!!』


千秋は、すぐにヘルメットを外し、目の前の画面に駆け寄る。すでに外では柔造が研究員に取り押さえられようとしていた。非常ベルがけたたましく鳴り響く。


「…サイアス!俺であって俺じゃないお前に、頼みがある」


現れた画面は、さすが自分の脳と連動しているだけある、と感じられた。思い描いた通りの画面を弄れば、警備員がこちらへ向かう廊下がすべて閉鎖された。
あとは、この高度な権限画面の選択をするだけ。これがもたらす被害額は、すぐに弾き出せた。途方もない数字に、笑いが漏れる。システム不調ですでに大きな被害をもたらしてのこれだ、人々には申し訳なさしかなかったが、それでも、千秋は自身を優先した。


「ごめんね、もうちょっと付き合って」


"cut off the supply of electricity"という文の下に、いくつか項目が続く。
その中の"Kanto-Koshin"を選び決定した。

それと同時に、関東甲信越地方の電力供給が途絶えた。


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