君はヒーロー−3


それから1ヶ月、季節は秋に進むか進まないかといったところだったが、その日は比較的乾燥した秋めいた日だった。

いつも通り、千秋は自宅から電車と地下鉄を乗り継ぎ中野坂上へ出ると、地下街からホテルグランデ中野坂上へと入る。駅直結であり、ホテルの地下もレストランが並ぶ。そこから従業員エスカレーターで1階に上がり、エントランスの裏に出る。表と裏に面している防災センターに挨拶をしてから、従業員エレベーターで今度は一気に23階に上がった。

従業員フロアとなっており、更衣室で制服に着替える。ウェイターの服は茶色のボトムスにベストと白シャツ、男性なら赤い蝶ネクタイだが、チーフである千秋は上質な黒いスーツだ。
今日は夕方から近くの企業の懇親会として立食パーティーが予定されている。

更衣室を出ると、女性更衣室から荒木が出てきた。


「あれ、荒木さん、早いね」

「あっ、チーフ!お疲れ様です!今日は大掛かりなパーティーなので、ワインセラーの在庫を確認してこようと思いまして!」

「いいね、事務としてタイムカード切っといてあげる」

「えっ、いいんですか?」

「内緒ね」


普通は、少なくともこのホテルの普通は、そういったことで給料は出ない。荒木も無給のつもりだっただろう。それでも、その意識を形として評価したかった千秋は、あとで管理職権限でタイムカードを弄ることにした。
吹聴されても困るので、人差し指を口元に当てて秘密にするよう言えば、荒木は少し顔を赤くしてから、礼を言って去っていった。可愛いものだ、なんて彼氏に怒られそうなことを思いながら、千秋も仕事を始めた。



***



18時、パーティーが始まった。主にウェイター・ウェイトレスたちが接客し、チーフの千秋は会場後方や厨房などをいったり来たりしながら全体の監督をする。



「チーフっ!」


会場内で華やかに楽しむ人々を見ていると、押し殺した声で呼ばれる。客に配慮しているようだが、やはり焦っていた。


「…どうしました?荒木さん」


接客の場では全員敬語と決まっている。千秋は振り返り、声をかけてきた荒木を見た。リボンは曲がっていない。


「グルジアのワインが欲しいと言われたのですが、そんなワイン聞いたことなくて…!」

「…あぁ、ジョージアのことですね。つい最近、国名の呼称が変わったんですよ。旧称をグルジアといいます。下のワインバックヤードにあるの分かりますか?」

「はいっ、ジョージアなら確認しました!」

「それなら大丈夫ですね、引き続きお願いします」

「了解です!」


荒木は勢い勇んで21階のバックヤードへ向かった。昼間に確認していたから大丈夫だろう。
すると、間髪入れずに社内携帯電話で着信が入った。会場を出て、従業員通路で応答する。


「はい、二宮」

『お疲れ様です、21階のレストランホール担当の山田です。お客様から異臭がする、とご連絡があったのですが』

「…異臭?というか、そういったことは15階の防災センター分室にお願いします」

『そちらに聞いて要領を得なかったんですよ』


電話口の男の声は少し苛立っている。それにしても異臭とは、防災センターが早急に対処すべき課題である。それが要領を得ないとはどういうことか。

疑問に思った、その直後だった。



突然、階下から耳をつんざくような爆発音が響き渡り、床がぐらりと揺れた。悲鳴とともにグラスが割れる甲高い音がいくつもして、照明が瞬く。
そして、焦げ臭いにおいが漂い、非常ベルがけたたましく鳴り響いた。


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