Modern: Revolution for Revolution
−2
革命が始まった1789年の内に、人権宣言や封建的特権廃止などが行われ、ヴェルサイユ行進で国王一家はパリ市内のテュイルリー宮殿へ移った。
革命は最初の大きな段階を過ぎたようにも思われたが、1791年、穏健派で国王と交渉などを行っていた人物が死亡すると国王は逃亡した。
未遂に終わったこの事件を受けて、革命は立憲君主派から共和派へと主導権が移り、新たな段階へと入る。
1791年憲法制定で国民議会は解散し選挙が行われ、立法議会が成立、大多数を占める穏健共和派が内閣を立ち上げた。
穏健共和派は他の派閥に対抗すべく、1792年4月に干渉を図るオーストリアに宣戦。
『すすめ!すすめ!けがれた血でわれらの畝を潤そう!』
そう歌いながら義勇兵が集まり、また、オーストリアと繋がるテュイルリー宮殿を民衆が襲い国王一家はタンプル塔に幽閉された。
そうして9月、一般人の義勇兵とオーストリア・プロイセンの職業軍人がフランス北東部ヴァルミーで戦い、フランス側が勝利した。
その翌日、選挙で国民公会が成立し、第一共和政が始まった。
1793年、ルイ16世とマリー=アントワネットが処刑され、ベルギーを占領、イギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、スペイン、オランダによる第1回対仏大同盟が結成された。
国民公会は恐怖政治を行い次々と反発する者を処刑したが、1794年、それに耐え兼ねた人々はテルミドール9日のクーデタを起こし、国民公会は崩壊。
ここまで、わずか6年間の出来事だった。
そして、世界で最も有名な偉人の一人である男が、まさに台頭を始めようとしていた。
コルシカ島生まれの軍人、ナポレオン・ボナパルトは、国民公会の中心人物に良くしてもらっていたところ、テルミドール9日のクーデタで捕らえられてしまった。
しかし、1795年憲法制定と、それに基づく選挙の実施を前に王党派の反乱が発生し、それを鎮圧したことで一躍"若き英雄"となった。
新たに総裁政府が成立すると、干渉を続けるオーストリアをドイツとイタリアの両方から挟撃するため、ナポレオンはイタリア戦線を任されたが、ドイツ戦線はオーストリアに敗北。
一方のナポレオンはイタリアから連勝しウィーンへ迫り、講和条約で北イタリアを獲得した。
これにより第1回対仏大同盟は瓦解する。
熱狂的歓迎でフランスへ戻ったナポレオンは、イギリスに打撃を与えるため、インドとの交易に重要なエジプトを制圧しようと遠征を行った。
ピラミッドの前、ナポレオンは集まった兵士たちに、「見よ、」とピラミッドを指差した。
兵士たちは誰一人としてナポレオンの指差した先を見ずにいられなかった。
それほど、ナポレオンの言動には力があったのだ。
「4000年の歴史が君たちを見下ろしている」
ただそれだけを言い、ナポレオンは演説を終えた。
結果、ピラミッドの戦いにおいてフランス軍は大勝する。
だが、アブキール湾の戦いでイギリスに船を全滅させられ、フランス軍はエジプトに孤立。
そして1799年に第2回対仏大同盟が結ばれ、フランスは危機に陥った。
ナポレオンは単身フランスへ帰還し、民衆の支持のもと、総裁政府をブリュメール18日のクーデタで倒し総領政府を樹立し、実質全権を掌握した。
エジプト孤立中に奪還された北イタリアを再び獲得するため、ナポレオンはアルプスを越える奇襲作戦で勝利を得て、北イタリアとライン川西岸を獲得。
第2回対仏大同盟は崩壊したが、イギリスを含め各国と関係を修復し、1802年、ヨーロッパにはつかの間の平和が訪れた。
しかしナポレオンへの暗殺未遂事件の激化や、それに対象すべく王族を処刑し自身へ集権したことにより、各国は再びフランスに反感を抱き、イギリスは1年で和約を破棄。
ナポレオンは事態に対応するため、帝政へ進んで行った。