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その後もイギリスとフランスの間の戦争は、スペインやポルトガルを巻き込みながらも泥沼化し、イギリスでの政情不安による王朝の交代、フランスでの貴族間の内乱などが起こると国家間の戦争は止まった。

しかしフランスでは、王周辺のアルマニャック派とフランドル周辺のブルゴーニュ派の内乱が激しさを増し、ついにイギリスがそれに干渉して引っ掻き回す事態になった。

やがて1420年、イギリスはブルゴーニュ公国と同盟を結び、トロワ条約を結んだ。
伝説のイギリス=フランス連合王国である。

しかし両国で王が相次いで亡くなると、再びイギリスがフランスに侵攻。
そこに現れたのが、ジャンヌ・ダルクであった。
1429年、オルレアン解放とともにフランスは巻き返しを行うが、いまだ親イギリスであったブルゴーニュ公国はジャンヌを捕らえ、イギリスに引き渡した。

1430年にブルゴーニュ公国はフランドル伯領周辺のブラバント伯などベルギー一帯を統合し、1432年にはオランダ一帯を、1441年にはルクセンブルクを併合した。

ジャンヌを捕らえ、ネーデルラントを統一し、さらに1435年に親イギリス政策をしれっと切り替えてフランス側についたブルゴーニュ公が、善良公という通称で呼ばれているのは皮肉である。

そうして1453年、百年戦争は終息するのであった。



その後もネーデルラントはブルゴーニュ公国として併合されたままであったが、1477年にブルゴーニュ公が死去すると公国は崩壊へと向かい、最後の君主である女公マリーはハプスブルク家のマクシミリアンと結婚する。
ブルゴーニュ公国本土はフランスに併合されるが、ネーデルラントはブルゴーニュ公の名前でマリーとマクシミリアンが共同統治を行った。

そして1482年、マリーの死とともに息子フィリップがブルゴーニュ公に即位し、ネーデルラントを統治した。


その頃のアルレシアは、1479年に統一されたスペインや、戦いの終わったイギリスとフランスと貿易を活発化させつつ、王位継承問題に頭を悩ませていた。

大昔、国王の勅令によって男性しか王位を継げないことになっていたアルレシアでは、勅令は死後も必ず守られなければならないという決まりに則って女王を認めなかった。

しかし先代の王はたった一人の王女しか残さずに死去、その子が男児を生むまで空位となってしまった。

権力者の不在により、アルレシアは貴族たちの争いに苦しめられることとなったのだ。

アルレシア王位というヨーロッパ最高のステータスを欲しがる者は外国にももちろん多く、北欧諸国やイギリス、フランス、神聖ローマ帝国、スペイン、ポルトガルと各国がこぞって婚姻を申し出ていた。

しかし、北欧やスペイン、ポルトガルは同じく王位継承権についてごたごたが不可避であったし、イギリスとフランスはヨーロッパの二大陣営のような構図になっているためどちらかにつくのは面倒だ。
それならば、小さな領邦くらいでいい。

そうして、ブルゴーニュ公としてネーデルラントを統治していたフィリップが相手に挙げられた。

しかし王女の体調が悪いことや貴族の争いが収まらないためそれは見送られ、フィリップはスペイン王女フアナと結婚した。その息子、シャルルは1506年のフィリップの死とともにブルゴーニュ公を継ぎ、ようやくそこでシャルルと王女の結婚が決められた。

1508年にブルゴーニュ公シャルルとアルレシア王女は結婚し、ネーデルラントとアルレシアは同君連合となった。
その8年後にシャルルはスペイン王位を継いでカルロス1世として即位し、1519年にはカール5世として神聖ローマ皇帝にも選出される。
1524年に王女は逝去するがアルレシア王位はカルロス1世が持ったままであり、カルロスは1526年にポルトガル王女イサベルと結婚する。
その子供フェリペ2世によるスペイン=ハプスブルク家へとアルレシア王位はそのまま引き継がれ、やがてオランダ独立後はオランダ領となる。

1550年にオランダと和解するまでの42年間はずっと擦れ違いが続き、特にスペインの家へと移る1516年までの8年間は本当につらかった。

フランス革命期やWW2からの内乱期の方がひどい状態ではあったが、その時はオランダが支えてくれていた。
その本人と言わば冷戦状態にあったために、この8年間の方がつらく感じるのだ。

今の幸せのための布石と思えばいいんだろう。
アルレシアにとっては、それすらもオランダとの大切な記憶なのだから。


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