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アルレシアとオランダの個人の関係は、その後フランスに再婚と揶揄されるほど良好なものだった。
事実、 最初の結婚はアルレシア王女と当時ネーデルラントを支配していたブルゴーニュ公との間で行われたが、その二人の娘は嫁ぎ先で夫を亡くしてからオラニエ公ウィレムと再婚している。
アルレシア王家の血筋を引く公妃と後のオランダ総督一族との婚姻である。
そのため、アルレシアとオランダは再婚したと見なされるのだ。
とはいっても、二人が暮らすのはスペインの屋敷。アルレシアと近付きたいオランダを、スペインやベルギーが邪魔する。なかなか二人きりになれないばかりか、アルレシア自身はまだオランダと仲良くなれたとは思っていなかった。
当たり前だ、50年にわたって口も聞いてもらえなかった相手である。
そんな二人の仲良くなるきっかけはズバリ、金であった。
今まで間接的にしか行って来なかった商談を直接するようになり、その効率の良さに二人して感嘆したのだ。
「おお…コストが28%減るぞ…」
「アルレ経由の航路増やさんとあかんな…」
この頃から、オランダは距離を縮めるべくアルレと呼ぶようになった。スペインや他のベネルクスが使う呼び名だ。
ちなみに、その際理由を「呼びやすくなることで手間を省ける」としたのだが、アルレシアが呆れて本当にそうなのか問い詰めた結果、下心だと判明した。オランダとアルレシアの力関係決定の瞬間である。
そうしてオランダを交え、スペインたち一家は束の間の団欒を得たのだが、それは僅かしか続かなかった。
オランダ独立戦争と、三十年戦争による八十年戦争が、始まろうとしていた。
話はフランスにおけるユグノー戦争とオランダにおける独立戦争が主軸となって進む。
フランスでは、プロテスタントたちをユグノーと呼んでいた。ユグノーたちは数を増やし、カトリックの守護者と言われたギーズ家は警戒心を強めていた。
このとき、フランス国王シャルル9世は幼く、母カトリーヌ・ド・メディシスが摂政を務めた。カトリーヌはこの頃は寛容な態度を示しており、1562年にユグノーとカトリックの融和を定めた1月勅令を発布していた。
しかし、その年の3月にギーズ家はユグノーを大勢殺害するヴァシーの虐殺を引き起こし、ギーズ家による勅令違反を大義名分にコンデ公がイングランドと結んで反乱を起こした。これより、三十年に渡るユグノー戦争が幕を開ける。
最初の戦闘は翌年にカトリーヌによるアンボワーズ勅令が停戦させたが、シャルル9世が親政を始めるとその動向が均衡を壊してしまい、1567年より再び戦闘が始まる。
1568年ロンジュモーの和議が結ばれるものの、カトリックとユグノーの間でお互いを虐殺し合う状況が続き、やがてユグノーの信仰の自由は再び消えた。
フランスの戦いが民衆の信仰心が原動力だったのに対し、オランダでは戦況を金が動かした。
ドイツに亡命していたオラニエ公ウィレムは、1568年にネーデルラントへ侵攻したが総督に返り討ちにあい、フランスへと逃げた。そこでユグノーと協力し、「海乞食」という海賊軍団を組織。海上封鎖による通商破壊作戦を実施し、それにより経済的打撃を受けたホラント州やゼーラント州などの26の都市が1572年までにオラニエ公側に寝返った。
ホラント州はウィレムを総督に任命し、1574年にはホラント、ゼーラントでプロテスタント側が完全に実権を握った。
フランスでは、オラニエ公の干渉から戦闘が激化し、1570年に再びユグノーに妥協した和平が結ばれた。
しかしそれでもユグノーの虐殺は止まらなかった。
また、王宮ではシャルル9世がユグノーのコリニー提督と結び、カトリーヌはコリニーの勢力拡大と彼のイングランド、ネーデルラント同盟案に警戒心を強めた。
結果、1572年、パリで行われるカルヴァン派の王女マルグリットとナバラ王アンリの結婚式の会場にて、コリニーは暗殺未遂に遭う。
ユグノーの報復を恐れたのは、それを実行させたギーズ公アンリだった。ギーズ公アンリはやられる前にやれ、とコリニー暗殺を決行。コリニーの死体は無残な目に遭い、パリ市民はそれにテンションを上げてその勢いでユグノー大虐殺を始めた。全土に拡大したそれはサンヴァルテルミの虐殺と呼ばれ、全国で1万人以上が殺害された。
ナバラ王アンリとその従弟、コンデ公アンリはカトリックに改宗させられることで処刑を免れたが、パリに幽閉された。
虐殺は激しい戦闘にもつれ込み、1573年に1度停戦した。
この頃、オランダはすでにホラントの自宅へと帰ってしまい、ベルギーやルクセンブルクもそれについていっていた。
アルレシアは王府が王位の所在について議論しているためスペインの屋敷で保留だ。
まだオランダもスペインもボロボロではなかったが、すでに一時期の気軽さはない。正式にアルレシア王位を継承したカール5世の息子であるフェリペ2世と、 アルレシア王家の血を引く妻との間に生まれた息子を持つオラニエ公ウィレムそれぞれがアルレシア王位を主張していることから、アルレシアも気まずい思いをしていた。