3


そうしている間にも、戦況は刻々と推移した。

フランス王宮では、シャルル9世とその末弟であるフランソワとの間で不和が生じ、ユグノーたちがフランソワのところに助けを求めに集まる事態となった。その直後から各地でユグノーの反乱が再燃した。
そんな中で、シャルル9世が急死。カトリーヌが再び摂政となり、シャルル9世の弟の一人でありポーランド王に即位していたアンジュー公アンリが帰国するまでという期限つきとした。
アンジュー公アンリは帰国し、1575年にアンリ3世として即位したが、有力諸侯やフランソワがユグノー寄りの中立派である不満派につき、さらにナバラ王アンリとコンデ公アンリもパリを脱出しユグノーへと合流したことから、焦って和平を結んだ。

その和平に対し、ギーズ公らはカトリック同盟を結び、広大なカトリック貴族の土地を束ねた。その後生じた戦闘では、政治的理由から不満派がカトリック同盟につき、ユグノーは大幅に譲歩する形で新たな和平を結んだ。
1579年から80年にかけて、コンデ公アンリはそれに抵抗して戦闘を行うが、結局状況を変えることはできなかった。


オランダでは、1575年のスペイン軍によるベルギーでの略奪に対し、ベルギーとスペイン側のネーデルラント総督との間で和平が結ばれたが、北部ではアムステルダムやユトレヒト州が新たにオラニエ公につき、南北の対立が鮮明になった。
やがて、1579年にネーデルラント総督はベルギー南部でカトリック諸州によるアラス同盟を組織し、オランダも対抗してユトレヒト同盟を結成した。
ユトレヒト同盟は1580年から1585年にかけて、フランソワやアンリ3世にユトレヒト同盟の代表としてオランダの君主になるよう求めたが拒否され、さらにオラニエ公ウィレムが暗殺されたことでリーダーを完全に失ってしまった。



ベルギー、ルクセンブルク離脱と前後して、アルレシア王府は王位をオラニエ公ウィレムの息子の一人にあるとして決定した。理由は簡単、プロテスタント国家である北欧やイングランドといった金持ち組と仲良くしていたいからである。
没落を開始したスペインから、これを機に離れるつもりだった。
これに合わせ、ウィレムは王位を認められた息子に、異母弟であるマウリッツにそれを譲位させた。その息子は病弱で、もう命が残りわずかだったからだ。

オラニエ、ナッサウ両家の位を継いだマウリッツは、アルレシア王位も手にした状態でユトレヒト同盟の指導者になり、戦争を導くこととなる。

こうして、1585年よりアルレシアはオランダとともに戦場へと立ったのである。




一方、フランスでもこの年からユグノー戦争が終局に差し掛かる。

パリ市民からかけられたユグノーへの弱腰姿勢に対する圧力によってパリを追い出されたアンリ3世は、ギーズ公やカトリック同盟が王権を脅かす存在であるのではと不信感を強めていた。
そこでアンリ3世はギーズ公を暗殺し、その息子を捕らえてしまった。
カトリックの守護者であるギーズ家への暴挙に怒ったパリ市民によって、アンリ3世は暗殺され、ナバラ王アンリがアンリ4世として即位した。
アンリ4世はユグノーの代表格であり、ギーズ公やカトリック同盟との戦闘を続ける傍ら、どさくさ紛れに独立戦争を起こし始めたメルクール公との戦争も行った。

それらの戦争には優位に立ち、ユグノーの勝利が見えてきたが、アンリ4世にとっての最大の敵は、根強いカトリックであるパリ市民だった。
そこでアンリ4世は、1594年に敢えてカトリックへと改宗し、その上でプロテスタントを認めようとした。

1595年、カトリック同盟を支援する大元であるスペインに宣戦布告してフランス・スペイン戦争が勃発し、メルクール公などほぼすべての反乱因子は平定された。

そしてついに1598年、ナントの勅令を発布し、世界で初めて信仰の自由が認められた。 後世では画期的なものとされたが、カトリックからとプロテスタントからと不満を持たれたアンリ4世は、1610年に暗殺されている。



マウリッツの指導で戦争を続けていたオランダも、アンリ4世やエリザベス1世から国家として承認され、スペインとの戦争を継続しながら事実上の独立を果たした。
そして、ここからがオランダとアルレシアの暴れん坊時代となる。


24/94
prev next
back
表紙に戻る