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1625年5月、ついにデンマークは帝国内に進駐、三十年戦争は国際紛争となった。
ハーグ同盟からの資金提供を受けてはいるが、デンマークは圧倒的に兵力が足りなかった。そこで、2つの傭兵団を雇って挑んだ。
「ヘッセン、ザクセン、プロイセン、力を貸してくんちょ!」
「てめぇ俺様が狙ってた司教領支配する気だろうが、ぜってぇやだね」
当初は他のプロテスタント諸侯の力を借りる予定だったが、ヘッセンは味方についてすぐ脱落、ザクセンとブランデンブルグ=プロイセンはデンマークの要求する司教領を狙っていたため拒否した。
対するオーストリアは、バイエルンからの力は得られたが、スペイン回廊の封鎖とヴェネチアーノの工作によってスペインから救援を得られず、仕方なく傭兵ヴァレンシュタインを雇った。
デンマークと2つの傭兵団は統率が取れずヴァレンシュタインによって撃破され完敗。
慌ててフランスに援軍を頼むが、フランスは1626年よりユグノーが再び反乱を起こしたことでその鎮圧に追われ、手を貸せなかった。
このデンマークの敗走、ヴァレンシュタインの台頭、フランスのユグノー反乱はさらに三十年戦争第2ステージをカオスなものにしていく。
まずヴァレンシュタインだが、彼はカトリック、プロテスタント関係なく駐屯した地域に武力をもって重い税金を課した。彼は皇帝から徴税権を得ていたからである。普通の傭兵より給料が高いことから多くの人々が傭兵としてヴァレンシュタインの軍に加わり、その規模は数十万に達する。
また、傭兵たちは遊び半分で庶民を虐殺し、略奪を繰り返した。
その被害にあったプロイセンは皇帝への不信感を強め、皇帝勢力の拡大にカトリック諸侯すら警戒心を抱いた。
皇帝がヴァレンシュタインにメクレンブルク大公国を与えたことはバイエルンですら批判している。
ヴァレンシュタインはその後もデンマークをことごとく破り、ポンメルンやユトランド半島を荒らし回ったが、警戒したスウェーデンがデンマークと1628年に軍事同盟を結んだことからヴァレンシュタインは撤退。
しかし調子に乗って追撃したデンマークはこっぴどくやられる。
一方フランスは、国内のユグノー反乱を鎮圧させながら北イタリアでスペインと戦端を開いた。このマントヴァ継承戦争でスペインは苦戦し、さらにオランダ=アルレシアに海戦で敗北して窮地に立たされていた。
だがイギリスが国王の交代により過激化し、ユグノーを弾圧するフランスにグリニッジ条約を破棄してフランスに宣戦すると、フランスはスペインとともにイギリスを撃破。
イギリスは1630年までにそれぞれと和睦し、国王は財政再建のために専制政治を始め、清教徒革命を引き起こすこととなる。
同じ頃にデンマークも帝国と和解し、三十年戦争から撤退した。
これに慌てたのはフランスだ。帝国側が勝ってしまったし、ヴァレンシュタインはとても強い。
そこでフランスは、外交戦略に打ってでた。
「はよ王位寄越せよ、それもともと俺のだしー!」
「カトリックにはやらね」
「はいそこまでー!」
もともと同君連合だったスウェーデンとポーランド、スウェーデンが改宗によって独立するとポーランドはその王位を復活させようと争っていた。
フランスはそれをなんとか仲裁し、スウェーデンに余裕を持たせた。
また、ヴァレンシュタインに怯える北ドイツの都市たちもスウェーデンに同調したことで、スウェーデンは本格的に侵攻を検討する。
さらにフランスにとって都合のいいことに、皇帝は復旧令という政策を開始し、迫害されるプロテスタントや皇帝の権力拡大に反対するカトリック諸侯たちの批判を受けていた。
皇帝のそのような強気の姿勢はヴァレンシュタインに立脚していたが、選帝侯たちは1630年の会議にて、皇帝に息子を皇帝に認めて欲しければヴァレンシュタインを罷免するよう求めた。皇帝はそれを飲まざるを得なくなり、ヴァレンシュタインは罷免される。
こうして皇帝軍は一気に弱くなった上に権威を失い、カトリック側の足並みは乱れた。
そして、スウェーデンがアップを開始し、第3ステージが始まる。