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1658年末、スウェーデンはそのようなデンマークの動きに不快感を示し、デンマーク征服を完遂させることにした。フィンランドを奪われた八つ当たりではない。

翌年の年始までにスウェーデンは半島北部を制圧すると、コペンハーゲンを包囲した。


「なっ!?聞いてねぇべよスヴェーリエ!!」

コペンハーゲンにて、デンマークはスウェーデン包囲の一報にさすがに驚いた。まったく予期していなかったのだ。


パニックになる城下を見て、デンマークは冷静になる。
確かにここのところずっと負け続きだ。しかし、それに甘んじるつもりはない。
まずはこの街を死ぬ気で防衛し、外からの助けを呼ぶ他ない。

基本的に弱小のデンマークだが、なぜか首都コペンハーゲンまで迫られるとその底力を見せ付ける。
それは第二次大戦の六時間戦争にも共通するところだ。本当に守るべきものを昔から分かっている国なのかもしれない。


「引いではいげね!ぜってぇ押し返すぞ!全員でこの街を守んだ!!」


徹底抗戦を決めたデンマークは、包囲するスウェーデン軍に対して一丸となって戦った。
コペンハーゲン市民も皆が立ち上がり、駐留していた軍や王宮の近衛兵よりも奮戦。石や家具など身の回りのものを城壁が投げ落としたり、市内に通じる道を塞いだりと猛烈な抵抗を行い、ついにスウェーデン軍を撤退させた。


その様を見て、オランダはついに腰を上げた。海軍を指揮するオランダに、アルレシアは備蓄などを支援する。

「俺はさすがに行かねえけど…代わりに頼むな」

「任しとき」


オランダはデンマークとの同盟を結び、海軍をバルト海に派遣。


「そろそろ先勝国感出しに行くかな」

「あなたは本当にいいとこ取りしかしませんね、お下品です」


同じく同盟するオーストリア、プロイセンも陸軍がユトランド半島へ進んだ。
スウェーデンは焦ってポンメルンやポーランドから軍を引き上げた。
スウェーデン国王はなんとか作戦を練り直そうとしたが、結局陣の中で熱病にかかり崩御。
戦争の中心人物の死によって、関係各国は一気に講話へと動いた。


1660年、コペンハーゲン条約にてデンマークはスコーネ以外のすべての失地を回復したが、バルト海でのスウェーデンに対する軍事行動を禁じられた。オリヴァ条約でスウェーデンはポーランドからの王位請求権を破棄させ、バルトの一部を得た。ヴェーラウの和約ではプロイセン公国が成立しポーランドから離脱、1661年のカディス条約でスウェーデンはロシアからフィンランドを取り返した。また、オランダはスウェーデンのアメリカ植民地を獲得した。
ロシアとポーランドの戦争は1667年まで続くが、大規模な北方戦争はここに終結した。

この戦争でスウェーデンのバルト海での覇権が確立し、ロシア、プロイセンが影響力を増し、デンマーク、ポーランドが衰退した。



一方で、西欧では新たな火種が同じ頃に燻り始めていた。
1659年、フランスとスペインがピレネー条約で和睦した際、スペイン王フェリペ3世の娘マリーがフランス王ルイ14世と結婚した。マリーは賠償金を持参金としてパリに持っていかなければならなかったが、すでにスペインの家計は火の車。
条約でスペインから領土を獲得しているが、持参金がもたらされないことはフランスがつけいる口実となってしまった。

まだ、1661年に独立を承認されたポルトガルも、オランダから認められオランダとの戦争は終わったものの条約は 結ばなかった。これがイギリスとポルトガルの同盟を強くすることになり、第二次英蘭戦争へと発展してしまう。

さらに1660年にはイギリスも王政復古が行われ、新たに国王となったチャールズ2世やジェームズ2世はフランスの傀儡だった。

これらのことが合わさり、その歪みが噴出した結果、イギリス、オランダ、フランスがアルレシア王位を主張する事態となってしまう。


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