17世紀の危機: 大同盟戦争


オランダ侵略戦争終結と同じ年、オーストリアではこの戦争に助太刀するべくトルコに対して妥協的な和約を結んだことに反対する貴族が反乱を起こしていた。
反乱勢力はトルコに支援を要請し、オーストリアはこの反乱にかかりっきりとなった。

フランスは東方で一波乱起きることを想定し、各国がオランダ侵略戦争で弱っているうちにと行動を起こした。


「ねえねえルクセンブルク、お兄さんさ、昔ひとつだった地域とか地形的にひとつの共同体であるべきところとかは、本来の通りひとつであるべきだと思うのね?ルクセンブルクもそう思わない?」

「はぁ…まぁ、それが自然なのであれば」

「だよな!じゃあルクセンブルクはフランス領でーす」

「…えっ!?」


1683年までに、フランスはこのように一方的に領土を主張しては併合する活動を続け、ルクセンブルクやストラスブールなどライン川西岸を次々と支配していった。
もちろん、武力で脅しをかけている。

その同じ年、トルコはついにオーストリアに侵攻し、第二次ウィーン包囲を決行、ポーランド、オーストリア、ヴェネツィアの連合軍と激しい戦闘になった。

オーストリアが完全に東方を向いたのを確認すると、フランスはかつて世話をしてやっていたイギリス王ジェームズ2世を説得し、欧州侵略を露骨に意図し始めた。
当然、イギリス議会やオランダはそれにキレた。こうして、イギリス議会はオランダ総督ウィレム3世と接近した。

さらにフランスは徐々に国内のプロテスタントから権利を奪っていき、地上げや不当逮捕などを平然と行い、やがて1685年にフォンテーヌブロー勅令によってプロテスタント追放を決めた。
フランスからは恐慌状態に陥ったプロテスタントたちが脱出し、プロイセンやイギリスに引き取られた。
特にプロイセンはかなりの数を受け入れたため、勅令に対して厳しい目を向けていた。

さらにその年、フランスはプファルツ選帝侯領と1688年にケルン選帝侯領でも継承を巡る争いに介入。
警戒したオランダ、スペイン、オーストリア、プロイセン、スウェーデンなどはアウクスブルク同盟を組み、開戦に備えた。
そして1688年、ケルン選帝侯領にフランスが侵攻したのを見て同盟側も出兵、大同盟戦争が勃発した。

開戦に前後して、ウィレム3世はイングランドに上陸し議会と合流、ジェームズ2世を廃位しウィレム3世がウィリアム3世としてイギリス王にも即位した。
ここに、オランダ、イギリス、アルレシアの同君連合が成立する。
イギリスは同盟側に立って参戦、スペインやサヴォイアも1690年までに戦端を開き、前線はフランス国境全域に拡大した。


当初、アルレシアはこの戦争を静観していた。オランダやイギリスは出兵しているが、アルレシアは先の騒乱で国内経済がストップしたことで取引先の諸外国に対して負債を抱えてしまい、その返済に追われていたのだ。
なんとか貿易商への緩和や関税引き下げなどで対応していたが、そこに1690年夏、フランスによるアルレシア船団の襲撃事件が起きてしまった。

アルレシアの国営貿易会社の船団が、ドーバー海峡を航行中、フランスの私掠船によって拿捕されてしまったのである。このときフランスの私掠船はイギリス船を狙っていたが、同君連合によってイギリス国旗も掲げていたアルレシア船も一緒に拿捕されたのだ。
それによって大損害を被ったアルレシアは、折からの負債もあいまって怒りが頂点に達した。


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