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7月16日に発生したレガリスタード砲撃によって、3港の占領に対して何もできないままに休戦協定を結ぶことになった。17日、サンミネラシア、ポルタスヴィア、ノヴァ=ノルマンディアのフランスによる領有を認め、レガリスタード南方にフランス軍の駐留を認める内容での協定に調印。
どうやらこれはフランスがハノーファーへの攻撃を容易にするためだったようで、アルレシアそのものへの要求はなかった。
「お兄さんほんとはあちこち欲しかったけどね」
そう言うフランスに殴りそうになったのは言うまでもない。絶対ボコす、と心に決めながら、フランス海軍がアルレシアから出撃して対岸のハノーファー選帝侯領へと向かうのを見るしかなかった。
こうして9月にはハノーファー選帝侯領は全土がフランスの占領下になった。プロイセンはロシア、オーストリア、スウェーデンによって三方向から攻められ絶体絶命、イギリスも海外で苦戦している上にハノーファーを奪われ、窮地に陥っていた。
しかし、10月になってから流れが変わった。
10月1日、フランスはアルレシア領海を使って北海封鎖を宣言。プロイセンとイギリスの補給を絶った。しかしこれには、北海を利用する中立国が懸念を示した。そしてこれをきっかけに、オランダとデンマーク、ノルウェーがアルレシアのもとに集まった。
「あの野郎、ただじゃおかん…!」
「調子乗りすぎだっぺぇ…」
「…生きたまま燻製にしちゃる」
オランダ、デンマーク、ノルウェーはそれぞれ殺意を滲ませる。北海封鎖だけでなく、アルレシアがフランスに占領されることによるオランダの国防上の不安や、スウェーデンとフランスに挟まれるデンマークの恐怖もあった。
ハノーファー奪回を目指すイギリスもこれに賛同し、中立国であるオランダとデンマーク=ノルウェーの存在は隠す形での半秘密同盟として、北海同盟が締結された。まさに北海を囲むイギリス、オランダ、ハノーファー、デンマーク=ノルウェー、アルレシアによるものだ。
そして、アルレシア軍に紛れてオランダとデンマーク、ノルウェーは派兵し、まずノヴァ=ノルマンディア包囲を開始、同時にレガリスタードの戦いで南方のフランス軍を叩いた。
オランダたちのおかげで奇襲は成功し、11月17日にはノヴァ=ノルマンディアを解放した。そして11月20日に第二次休戦協定が締結され、フランスはノヴァ=ノルマンディアとレガリスタードから撤退した。
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ちょうど大陸部でも、11月5日にロスバッハの戦いで、12月5日にロイテンの戦いでプロイセンが大勝した。また、12月中にプロイセンはスウェーデン領ポンメルンの大半を占領し、イギリスはハノーファーの大部分を奪回した。
しかし1758年はややプロイセンが押される。1月にボヘミアへ侵攻するも撤退し、ロシアに東プロイセンを占領されてしまったのだ。
4月にイギリスはハノーファー全域からフランス軍を駆逐することに成功しているが、プロイセンの戦況は芳しくなかった。
そして1759年、フランスはこの年にイギリスを叩きのめして終戦しようとした。
まず6月1日、フランスはアルレシアのノヴァ=ノルマンディアと北西部の港町スコティエを占領、翌日には西端のエッジポートを占領した。スコティエとエッジポートはそれぞれイギリスとのつながりが古くからある町で、アルレシアへの上陸もそこから行われていた。
さらにこの2つの町を占領されたことで、アルレシア西側の制海権をフランスが握ることになり、イギリスは大打撃を受けた。
このままフランスはイギリス侵攻を企てていたのだが、イギリスはミンデンの戦い、ラゴス海戦で相次いでフランスを破り、その勢いで9月にエッジポートを、10月にスコティエを解放した。11月にはキブロン湾の海戦でイギリスがフランスに大勝し、アルレシア不在のままこの年の戦いは終了、第三次休戦協定で第二次協定の再確認を行った。
一方でプロイセンはカイの戦い、クーネルスドルフの戦い、マクセンの戦いと敗北続きとなっていた。