革命戦争: 民衆の怒り
アメリカ独立やポーランド分割など、一部にとっては黒歴史なところまで話が進んだ。どの国も忘れたい記憶はある。それを忘れてはいけないのだということも分かっている。だからこそ、必要以上に感傷的になるようなこともなかった。
「アルレシアは経済がハードポリティクスではない時代からそんなことをしていたのか」
ドイツは単純に、18世紀末のポスト七年戦争の時代をアルレシアが通商政策で乗り切ったことに感心していた。ハード・ソフトポリティクスとは、政治と経済を分けて考えていた頃の政治学用語だ。国家の最優先の政策が経済関係になった1980年代より、そのような分け方は意味をなさなくなり、政治と経済は不可分となった。
「俺の軍事的ピークは13世紀だしな」
「19世紀には相当親父だったんだよね」
フランスがそう言うと、アルレシアだけでなくすべての国がジト目になった。当然だ、19世紀に欧州に吹き荒れたナポレオン・トルネードは、欧州近代史において最も各国を疲弊させたからだ。フランス自身もそれなりに痛手を被っている。
そしてその後、七年戦争時点で戦争はこりごりだとどの国も思っていたはずなのに、二度も世界大戦が起きてしまったのだ。すべては、相手が自分を負かそうとするかもしれないという相互疑心暗鬼によって引き起こされた。七年戦争がそうだったように。
「しかしアルレシアは、俺の知っている歴史ではかなりフランスに対して奮闘しただろう。あの時代、国土の割譲をしなかったのはスウェーデンとイギリスとアルレシアくらいだ」
「あぁ、それも外交と経済政策によるところがでかいな。あとはオランダのおかげ」
「俺にとっても助かることやったさけ、おあいこや」
ドイツの疑問通り、アルレシアはその後発生したフランスの大戦争においてそれなりに戦った。それを支えたのも、紛れもなく通商政策である。思えばこの頃が、オランダとの関係性を更に深める機会でもあったように思える。
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1789年、財政危機に陥ったフランスを立て直すために開かれた三部会は決裂し、国民代表である三部議員たちは独自の議会設立と憲法制定を目指して動き始めた。
その動きは王政による弾圧に繋がるのではないかと恐れた民衆は、やられる前にやれとばかりに全土で役所などを襲撃、バスティーユ牢獄襲撃に端を発する大恐怖という恐慌状態に陥った。
地滑り的に発生したフランス革命は、その勢いのまま進展し、王政は崩壊した。
旧権益を持つ貴族など多くのフランス人が亡命し、近場のオーストリア領ネーデルラントやオランダ、ハプスブルク君主国内やプロイセンなどに逃げ込んだ。そうした人々の要望に押されるような形で、プロイセンとオーストリアは重い腰を上げようとしていた。当初、この革命がそれほど大規模なものになると思っていなかったからだ。
イギリスでは貴族たちによって王が処刑される清教徒革命があったものの、今回は平民の革命であり、中心にしたのも立憲主義の勢力だった。
プロイセンとオーストリアは集まって、今後のことをどうするか話し合うことにした。といっても、2人にとっての本題は当時進めていたポーランド分割に関する協調姿勢への合意であって、フランス情勢は二の次であった。マリア・テレジアの息子でヨーゼフ2世の弟である、オーストリアのレオポルト2世は妹マリー・アントワネットが危機に瀕していることを憂慮していたこともある。
「そういや坊ちゃんよ、フランスの件についてどうするつもりだ?」
「事態を重く受け止めています。ブルボン家の安全を確保し、君主制へ悪影響を及ぼすようなら武器を手に取ることも吝かではありません」
「だよなー、俺もそういう感じ」
2人にとってそれは、とりあえず言っとけ感のあるものだった。それだけフランス亡命貴族がうるさかったのだ。
これをピルニッツ宣言という。
ピルニッツ宣言はフランス人には異なる意味で熱狂的に受け止められた。亡命貴族たちは大国が味方になったということを喧伝し、同じく亡命した人々が多くいてフランス情勢を注視している南ネーデルラントやドイツ諸邦でプロパガンダのようなことをした。
一方のフランスの革命勢力は、この宣言を両国による重大な警告だと受け止めた。
急いで1791年憲法に基づき革命勢力は立法議会を開くと、共和政への脅威であるオーストリアの影響力を排除することを決定した。