神野の悪夢/前編−6
「ちっ、聞いてんのかおい!」
爆豪は体を起こして灯水に呼びかけてくれるが、灯水は水中にいるかのように聞こえにくくなってきた。その代わりはっきりと聞こえてくるのは、麻薬のような荼毘の声。優しく甘やかな、悪魔の囁き。
器の傷を埋める漆のように、じわじわと浸透してくるようだった。
「新しい自分になろう、灯水。お前のことを、俺や他のヤツはそのまま受け止めてやる。こっちに来れば、お前はつらい思いも苦しい気持ちもおさらばだ」
荼毘はそう言って、頭を撫でていた手を使って灯水を自身に引き寄せる。黒い荼毘のジャケット越しに胸元ににもたれさせられた。危険な安心感を感じる。これ以上、この男に触れてはいけないと本能が警告する。だが、自分で抗うことができなかった。
「くそが、何やってんだてめぇ!手ぇ離せや変態が!」
「俺が守ってやりたいって思っただけだ」
「嘘つけ!その気持ちわりぃ薄ら笑いしまって出直して死ね!!」
「ったく、やかましいな。まぁ、今日はこの辺にしよう。明日また話そう、灯水」
荼毘は親し気に名前を呼ぶと灯水から離れる。そのままツカツカと振り返りもせずに部屋を出ていった。そして訪れる静寂。
「んのバカ!聞くなっつっただろーがカス!!」
と思うと、爆豪は灯水に怒鳴りつけた。ようやくちゃんと爆豪の言っていることも聞けるようになり、同時にあそこまでの距離を無意識に許した自分に戦慄する。
「なん、で、俺…」
「くそ、無意識かよ…敵につくなら今ここで俺が殺してやる」
「敵なんかなるわけないでしょ…んなもん、なるわけ…」
だが、荼毘の言葉は確実に灯水から痛みを忘れさせた。強引に他者から灯水の事情を言葉にされたことで客観的にそれを捉えてしまい、今まで押し殺してきた痛みがぶり返した。それを荼毘の言葉がモルヒネのように感じなくさせたのだ。
「…なのに…俺…あいつの、言葉に…」
そうして惑わされそうになってしまった。ここで灯水が敵につくようなことになれば、学校としての雄英は世間の前に成すすべなく終わりを迎える。そう分かっていても、心が揺れるのが分かった。
「…やっぱ俺、出来損ないだわ…こんな、敵に言われて…」
未熟な不良品だからこうなってしまったのだ。灯水が、出来損ないだから。そう思い至って俯くと、爆豪が突然灯水に軽い膝蹴りを入れてきた。
「いっだ…!」
「くそが!!!」
爆豪は怒鳴ると、こちらに近寄ってくる。何をする気かと身構えると、その重そうな枷を持ち上げた。殴る気かと咄嗟に目をつぶると、灯水の上体をするりと何かが囲った。
恐る恐る目を開けると、灯水はなんと、爆豪の腕の中にいた。枷で両手を閉じられているため、その輪に灯水を通したのだ。
「いいか、これは緊急の便宜的措置だ。変な勘違いすんじゃねぇぞ」
「…や、勘違いもなにも何事…?」
「…んな全身気持ちわりぃ肌したヤツに安心してんじゃねぇってことだ殺すぞ!」
そういうと爆豪は枷で灯水の後頭部をつつき、灯水の体を自身にもたれさせた。荼毘にされたのと同じようなものだが、爆豪の方が筋肉質で温かい。体温が高めなのだろう。
鎖骨あたりに顔が来るような形で抱き締められ、何が起きているのか分からず目を白黒させていると、耳元に低い声が落ちてくる。
「…もしお前が敵になったとして、攻撃するのはA組のヤツらだろうな。半分野郎やデクたちを殺しに行くんだろ、個性分かってるからな」
「っ、!」
「…お前は、それでいいんかよ」
いつぞやと同じ言葉だった。灯水が敵になったら殺す相手、それは大好きなA組の人たちになる。今度は、まったく戸惑わず、迷わずに答えた。
「嫌だ」