神野の悪夢/後編−9
来てくれただけでも嬉しい、と言おうとしたが、あのときのことを思い返すと何となく灯水も思うものがある。向けられた切島の手。ちゃんと両手を向けてくれたから灯水も飛べたが、もし片手だったら、自分も言っていいものかと迷って機を逃しただろう。
あれが焦凍だったら。どくりと心臓が音を立てる。もしも焦凍が手を伸ばしてくれていたら。焦凍の手を、取ることができたら。
そこでようやく灯水は気づいた。
すべて分かったのだ。今まで灯水が、心の奥で最も灯水が望んでいたことが。自分をなくして、将来どうしたらいいのかもわからなくて、友人すらまともに関われない自分の出来損ないぶりに絶望して。そうした中で、灯水がどうして欲しかったのか。何を求めていたのか。
期末試験のあとに緑谷のブレザーを掴んで言いそうになり、自分で言うのを思いとどめたことでもあるし、そして、先ほど爆豪が言ってしまえばいいと言ったことでもある。
灯水はきっと、焦凍に救けて欲しかったのだ。存在意義を失ってしまって、どうしようもなくなって、どうすればいいのかも分からなかった灯水を、他でもない、焦凍に救けて欲しかった。
でもやはり、言ってはいけない。焦凍はこれから、何者にも囚われずに明るい世界で生きていくべきなのだから。それを押しとどめるようなことはしてはいけない。だから黙っているべきだ。そう思っていると、焦凍は話を続けた。
「俺さ、気づいたんだ。攫われた灯水を心配してる姉さんやお母さんを見たとき、今まで灯水は家族に心配かけないように頑張って、皆が俺のこと気に掛けるようにしてるんじゃねぇかって」
「っ、」
焦凍が気付いたと言っていることは事実だ。実際、灯水はそうやって生きてきた。なるべく焦凍のために皆が動くように、灯水を心配する分まで焦凍に向くように。
「切島と上鳴から、合宿中にお前に言ったっつーことも聞いた。お前は今まで、俺のために友人関係作ってきてくれたんだよな。それに慣れすぎて、癖になっちまってたんだよな」
あの作り笑いを指摘されたことだろう。これも焦凍の言う通り、灯水は焦凍の敵が増えないように交友関係を作って来たがそれは仮初のもので、A組の人たちのように本当に仲良くなりたいと思ったのは初めてだったがために、どうすればいいか分からず癖で中学時代の付き合い方をしてしまっていたのだ。
「俺、体育祭で緑谷のおかげで周りが見れるようになった。それでもお前のこと気づけなかったのは、灯水のことなら何でも知ってるって思ってたからだ。でも、爆豪にも言われてたんだよ。体育祭のときに、「散々守られといて解決したら卒業か」とか、「どこ見てんだ」って。あいつは分かってたんだな、俺が灯水のことを全然見えてないってことに」
本当に爆豪はすごい。轟兄弟の分かっていないことをこんなにもぴたりと理解しているなんて。爆豪も兄弟なのではないかと思うほどだ。きっと、事情さえ理解していればすぐわかることなのだろう。爆豪だけでなく、他の人にもわかるような簡単なことだったのかもしれない。
「なぁ、俺は今までずっと灯水に守られて来た。火傷を負ったあの日、道場に殴りこんできたくれたあの日からずっと。あのとき、親父が憎くて、お母さんに傷つけられたことがショックで、俺はもうどん底だった。5歳の俺にはそれを変えることもできなかった。でも、お前が変えてくれたんだ。灯水が、俺を1人にしないでくれた。俺にとっては、灯水はどうにもならないときに救ってくれたヒーローなんだ」