夢主と考える国際経済シリーズ
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こうして交渉の末、アルレシアはアメリカ、イギリス、フランスから400億ドルを金塊の状態で賠償してもらうこととなった。

ロシアからの500億ルーブル、アメリカたちからの400億ドルはそれぞれ金塊の形であったが、他にも様々な賠償が行われた。
アルレシア企業への東西両方からの投資がそれぞれ15億ルーブル、8億ドル分と定められ、高度な設備投資も3億ルーブル、1億ドルと決められた。
また、アルレシア通貨と金との兌換、つまり通貨相場をアルレシアは自由に行えることやアメリカ、イギリスなどの片務的な関税削減枠30%など様々な優遇を受けることになった。
亡命したアルレシア人の帰国費用もアメリカ・ロシア負担である。
地理的に非常に重要なポジションであっことが幸いしてここまでの賠償を獲得したアルレシアだったが、その代わり外資参入に規制はかけず、人の移動もある程度簡単にした。また、永世中立として東西どちらにも加担しないことを誓った。

こうしてアルレシアは莫大な投資を受けて産業が急成長し、亡命していた人々もお金がかからないならと90%以上が帰国した。
さらにアルレシアは世界でも珍しい、東西どちらの企業も進出する国となり、両陣営の企業が経済戦争を繰り広げた。これは産業をさらに成長させ、西側からは東側の企業の様子を見てみたい観光客も集まった。

イギリスによる油田調査も功を奏し、1960年代からはアルレシア領海や排他的経済水域において石油や天然ガスも産出されるようになり、アルレシアは成長率6%を平均とする経済成長を成し遂げた。

そして1960年代後半には、一人当りのGDPが当時のOECD平均を上回り、先進国としての地位を取り戻したのだった。

この頃から、それまでドイツがいることを理由に、ほとんどの国際組織に加盟して来なかったアルレシアに対し、国連にすら入らず独自路線を続けることに国内外からの批判が高まった。

「うるせえ」と一蹴してきたアルレシアだったが、オランダにも苦言を呈されて態度を改めることにした。
そのときについシュン、としてしまったアルレシアにオランダが大慌てしたことはたまに笑い話として二人の間で語り継がれている。

国連憲章など国連で採択された様々なルールを国内法として採択、適用することで、国連に入らずとも世界と同じ基準を採用し、為替への介入も極力控えた。
しかしどうしてもGATTは受け入れられなかった。なぜなら、たとえアルレシアがGATTに合わせて関税を削減しても、アルレシアからの輸出には関税がかかるのだ。それは片務的が過ぎる。

そこでアルレシアがとったのが、FTAという手段だった。
FTAは2国間での協議を可能にするものであり、最恵国待遇も必要としない。
ちょうど1960年にイギリスを中心にEEC(欧州経済共同体。EUの前身)に入っていないオーストリア、スイス、ポルトガル、ノルウェー、デンマーク、スウェーデンがEFTA(欧州自由貿易連合)を成立させ、翌年にフィンランドも準加盟していた。

自由化を進めて関税を減らし、国際世論の批判を避けつつ国内産業のさらなる活発化を求めて、アルレシアも1965年に参加した。

「フランスやドイツなんかがヨーロッパ統合進めるなんざ許せねえ、そうだろ?」

「へえ」

イギリスのそんな姿勢から生まれたものであったため、アルレシアは緩くやっていけるだろうと漸進的な進行を期待していた。
実際、ゆっくりと自由化が進んだためアルレシアの産業への打撃は少なかった。
1960年代後半からは北欧やイギリス、スイスとの物品貿易が盛んになり、金融も先進化した。1970年にはアイスランドも加盟して大きな団体となったが、1973年に言い出しっぺのイギリスやデンマークがEC(欧州共同体。EECの発展組織)に加入したことで脱退、その後も相次いで各国はEC、EUへと乗り換えていった。

1973年には各国は変動相場制へと移行したがアルレシアは固定相場を貫き、1985年のプラザ合意による日本円切り上げの混乱も乗り切った。
その頃からアルレシア経済は保護されることに慣れきってしまい経済成長は鈍化、外資企業や投資もシステムの違いから遠退いていった。

1989年のベルリンの壁崩壊、1991年の冷戦終結により世界はアメリカを超大国に据えることとなり、アルレシアの冷戦によるバランス戦略も終わった。
1995年にはオーストリアやスウェーデン、フィンランドもEFTAを脱退し、ついにアルレシアとスイス、リヒテンシュタイン、アイスランド、ノルウェーだけとなった。

自由化のチャンスを失ったアルレシアだったが、転機が訪れる。
1997年、アジア通貨危機である。

東アジアを襲った空前の通貨危機は、タイやマレーシア、インドネシアを疲弊させ、韓国を破綻させた。
そんな危機にIMFは対応しきれず、国際機関はなんの役にも立たなかった。
1995年にGATTがWTOに進化して以来、冷戦終結による東側諸国の参加もあって国際関税交渉は遅々として進まなくなったこともあり、東アジア諸国は「だめだこいつら…自分らでなんとかしないと」と、FTA競争が加熱した。
それを好機とし、アルレシアはアメリカ、メキシコ、韓国、シンガポール、オーストラリア、日本と相次いでFTAを締結、大規模な自由化に打って出た。

そうしてアメリカや日本、韓国のシェアがアルレシアで拡大したことに焦ったのがEUである。
アルレシアは一人当りの所得が高いため、EUの高い価値のある製品を買える貴重な市場だ。そこへ質の高いこの3か国のシェアが関税なしで拡大すれば、EUはシェアを減らしてしまう。しかしEUは参加国が単体でFTAを結ぶことはできず、EUという単位でしか動けない。
つまり、ドイツを含むためアルレシアとはいかなる協定も結べないのだ。

すでにEFTAで関税をなくしていたスイスやノルウェーが勝ちと言える。イギリス脱退後も関税交渉を進めていたため、EFTA諸国もEUより関税が低くなっているのだ。
入り直そうか頭を抱えたイギリスである。

一方でアルレシアも、EUとの貿易が縮小していることに危機感を抱いていた。
EUは成長著しい東アジアに目を向けており、アルレシアからの輸出量が減ることや、ヨーロッパからの食品の輸入も減ることに危惧していた。
産業構造も転換し、EUと補完的にならなければ、持続可能な社会にはならない。

こうして、アルレシアはドイツとの国交が回復したその瞬間にEUとのFTA交渉を開始したのだった。


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