夢主と考える国際経済シリーズ
−2人の病人とポンド危機
1980年代初頭、アルレシアの両隣には病人が二人いた。
「けっ、俺はどうせ老いた病人だよ…」
「……通貨が…下がらん……」
英国病にかかるイギリスと、オランダ病を発病したオランダである。それぞれ病の原因はまったく異なるものの、失業率の悪化、経済低迷とインフレが同時に発生するスタグフレーションに陥っていた点は同じであった。
今回は、そんな二人とアルレシアの話である。
***
やはり話は世界大戦後に遡る。
終戦後、2年してからアルレシアでは選挙をきっかけに第二次内戦が始まり、1950年から第三次が勃発、1953年から3年にわたって無政府状態が続き、1956年に落ち着いた。
その間、アルレシアの人口の四分の一が死亡、亡命していなくなるという事態になった。
そこでアルレシアは冷戦構造を利用したバランス外交に打って出た。東西どちらにつかれても困る立地を生かし、1957年、両者からの莫大な賠償金と投資をこぎつけた。
一方でオランダは、終戦後から1950年にかけてインドネシア独立戦争を起こしていた。和平会議をスルーして全面攻撃を続ける姿勢に、国連からも警告が何度も発せられた。
「お兄ちゃん、もうこんなんやめようや」
「隣でドンパチすんのそろそろやめてくれよー」
ベルギー、オーストラリアの仲介と、アメリカからの「マーシャルプラン止めるよ?」という脅しに屈し、オランダはついに1950年、インドネシアの独立を承認した。しかし、転んでもただでは起きないのがオランダだ。なんと、インドネシアに対し賠償金を払うどころか借金の返済を植民地政府から継承させたのである。
再三の謝罪要求も完全に無視、戦後のヤンキー国家の名を欲しいままにした。
そんなオランダも、1950年代からはヨーロッパ統合に心血を注ぎ、1957年のアルレシアに関する英米仏の賠償金合意の仲介や、周辺に逃れた難民の合意も取り持った。
イギリスは戦後、「ゆりかごから墓場まで」という高福祉政策を開始し、社会民主主義の先駆けとなった。マーシャルプランによって戦後復興も続けていき、経済は堅調に推移した。
しかし経済政策は必ずしも良いものではなく、内閣や政権が替わる度に産業の国有化と民営化、金融緩和と引き締めが短期間に繰り返される迷走状態となった。
また、1956年にフランスとともにイスラエルをけしかけ、エジプトに侵攻させどさくさに紛れてスエズ運河沿岸に上陸するスエズ動乱を引き起こして世界から顰蹙をかった。年末にはすごすごと引き上げている。
そのときの出費や、1957年からアルレシアにたいして始まった賠償も財政を圧迫。
1960年代までには、ほぼすべての基幹産業が国有化された。
さて、産業が国有化されたイギリスでは、じわじわと英国病が始まる。
国有化によって、イギリス国内からイギリス企業への設備投資が減少、国外へとそれは向けられた。
60年代のアルレシアの石油産業はこのときのイギリス資本による投資が支えた。
また、国有企業では怠慢が常習化し製品の質が悪化、国際競争力を失って輸出が落ち込み、輸入が増大して国際収支は赤字化した。
1973年から翌年にかけてのオイルショックは、これにインフレを伴わせスタグフレーションへと発展、ついに1976年、イギリス財政は破綻し、IMF管理下に入った。
これを英国病と呼ぶ。
その頃オランダでは、60年代からの石油産業発展に支えられ高福祉政策を始動、1973〜74年のオイルショックで石油需要はますます増えて国庫は潤った。
しかし、石油輸出が増えると通貨は上がる。当時のオランダ通貨は一気に上がり、工業品輸出が劇的に減少。
福祉政策によって政府支出が増大していたにも関わらず、工業への資本分配は行われないまま。
結果、オイルショック後の原油価格低迷により石油輸出が伸び悩んだ頃には、輸出産業は崩壊し、その残骸と膨大な財政赤字が残された。
これをオランダ病と呼ぶ。
こうして1978年の冬、アルレシアはイギリスとオランダの求めに応じて自由化交渉の席についた。
場所は当初ロンドンを予定していたが、このときロンドンは大混乱の中にあった。
オイルショック直後から、基幹産業のストライキに政府が応じたため、この冬にサービス産業もストライキに打って出たのだ。
病院や学校は閉鎖され、トラック輸送が止まり灯油の運搬が停止、ゴミ回収も止まり街はゴミで溢れ、墓場すら埋葬をストライキ。「ゆりかごから墓場まで」すべてのサービスが停止したのである。
急遽会議はアムステルダムで開かれた。
「ってことでこれから始めるけど…お前らほんと…なんか、似てるよな」
呆れたように言うアルレシアに、咳き込むイギリスやオランダは返さない。
スエズ動乱とインドネシア独立戦争、オイルショック後の大不況などにより、この2国は世界において国際的地位をどん底に下げていた。
「げほっ…お前だって、そのドイツ避けるスタンスのせいで世界から批判されてんだろ」
イギリスは勝手を貫くアルレシアを睨む。事実、国連やGATTの制約を受けずに立ち回るアルレシアは、オイルショック不況で苛立つ先進国たちに批判されまくっていた。
「うるせえな、俺の勝手だろ。内政干渉だぞ」
「アルレ…ちょびっと改めねま」
ついにオランダまでそう言う始末。いつでも味方だったオランダに言われ、アルレシアは目を見開いた。
「えっ…オランダまで…」
「勝手しとったら、また戦争なるで」
「……俺だって、好きでやってるんじゃねえのに…」
そう、別にアルレシアだってできることならドイツと仲直りしたい。
それでも国を守るため、必死に国連やブレトン・ウッズ体制の保護を受けずに孤独に頑張ってきたのだ。
項垂れたアルレシアに焦ったのはオランダ、そしてイギリスもだ。
今回はアルレシアに助けてもらおうと思ってこの会を開いているのである。オランダは単純にアルレシアに弱いだけだが。
「わ、悪いアルレ、ほな、てなわん(意地悪な)こと言うつもりや、」
「…俺のこと、一番知ってると思った」
「っ!ほやな、おうじょうこいて(大変な目にあって)おいこつな(苦労な)状況やったんはよーけ知っとるさけ、許しておくんねの」
「…元気になったら許してやるよ」
「アルレ…やっぱりかすな(すごく)しこらし(可愛い)やっちゃな」
「だから、そういうことは女にでも言えって」
オランダのおかげでどうにか雰囲気は柔らかく戻ったが、イギリスは「なんでオランダの言ってること分かったんだあいつ…」と微妙な目を向けざるをえなかった。いつもはもっと分かりやすく喋るオランダだが、たまに本当に分からない。
ようやく会議が始まると一転、3人は真面目に議論を行った。
輸出力が低下したイギリスとオランダに、アルレシアが投資してアルレシアとの関税を下げることが目的だが、やはりアルレシアは手強い。
投資の金利設定や数量、関税撤廃後のアルレシア製品に対する一定期間の差額関税制度の額などは、アルレシアも渋い顔をする。
しかしアルレシアにとっても、この交渉は成功させたいものだった。せっかく入ったEFTAは、イギリスが脱退したことでイギリスとの自由化交渉の場ではなくなったし、近々イギリスもオランダもヨーロッパ統合の中で独自の自由化交渉が行えなくなる。
今のうちに、イギリスやオランダ単体と自由化を進めなければ、EU市場へのアクセスが完全にできなくなる。
そんな背景も効を奏し、アルレシアとイギリス、オランダはそれぞれかなりの自由化にこぎつけた。
そして、それがアルレシアにとって最後のEU組との自由化交渉となった。