夢主と考える国際経済シリーズ
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なんとかアルレシアとの貿易赤字を縮小させたオランダとイギリスのうち、オランダは80年代から病を克服し始めた。
1983年、企業団体と労働者団体の間でワッセナー合意を取り付け、ワークシェアリングが始まった。ワークシェアリングとは、労働者の一人辺りの労働時間を削減し、減らした分を失業者に再分配することである。
失業者は減るが、これだけでは企業は人件費がかさみ、労働者は給料が減る。
そこで政府は企業に対し社会保障を減額し、労働者に対して納税額を減らした。
また、パートタイムとフルタイムの間のすべての労働条件を等しくし、労働者の自主的なパートタイムとフルタイムの選択を可能にした。
これによりワークシェアリングによって生じる不都合はなくなり、オランダは世界に先駆けてワークシェアリング経済を成功させた。
一方のイギリスは80年になってもなかなか景気は回復せず、構造改革は進んだものの失業率も下がらなかった。
アルレシアはヨーロッパ統合によって徐々にその経済圏から締め出される結果となり、ノルウェーやアイスランド、日本やアメリカとの結び付きに特化。ヨーロッパから視線を外していた。
そのためイギリスはヨーロッパ統合に深く関わる必要があるのではないか、と考えるようになり、そして、90年代を迎える。
1990年、イギリスは欧州為替相場メカニズムERMに加入した。これは、ユーロ通貨統一のための準備機構であり、EC加盟国の通貨をほぼ互いに固定するものだった。
それぞれの通貨は、互いの変動幅を設定し、それを超える変動を起こす場合は市場へ介入することになっていた。
こうしてイギリスは、この制度の根幹であるドイツ・マルクと固定相場状態となる。
1990年10月までの各国の様子はこうだ。
「輸出を伸ばしたい…そのためにも、俺の家でのインフレは許されない。マルクが高いのは仕方ないだろう…って兄さん!?ベルリンの壁はどうした!!??」
「ケセセ、んなもん壊しちまったぜー!んで、ヴェスト、金くれ」
当時の西ドイツは輸出志向型であり、インフレ率を低く押さえて金利も低めにしていた。1989年にベルリンの壁が崩壊してから始まった統一準備は1990年10月に完全統一という形で実を結ぶが、それにあたって多額の負債を抱えてしまった。
「お兄さんは自分さえ良ければいっかなー?って思うのね。だから若干インフレにして、お賃金は高めにしときたいの」
フランスは内需主導型であり、ドイツと違いインフレ率を高めにして貨幣賃金を高くしようとしていた。そのため、まったく逆の立場であるマルクとの変動幅を押さえるのは至難の業だった。
「親分もそんな感じで行くでー!…げっ、ポルトガル…」
「なんやそんな冷たい反応せんでもええやろ。どつくで〜」
「お前ら相変わらずかよ…」
「兄ちゃん、そろそろ農業改革…」
「………ねこ」
スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャといった南欧諸国や北欧諸国もフランス型の立場だ。
「あー、景気わる…つか芋野郎に合わせんのは癪だな…」
比較的ドイツに近い輸出志向型のイギリスは、しかしドイツに通貨を合わせるのは不愉快そうにしていた。
「まとまりなさすぎだろ」
外野のアルレシアは、そんなバラバラ具合に呆れを隠せなかった。
そして、ドイツは統一によって生じたインフレ率を下げるべく、金利引き上げを行った。ERM参加国もドイツに合わせて金利を上げなければいけなくなり、フランスやフランス型の国々は難色を示したが従った。
イギリスも金利を自動的に引き上げさせられたが、先からの不景気によって、イギリスは実態経済に合わない通貨高をその金利引き上げによって起こしていた。
さて、ここで ゲス顔になりアップを開始したのがアメリカ、もといヘッジファンドである。
「イギリスにそんな価値ないだろ?この冷戦最大の勝者、ヒーローUSAが是正してやるんだぞ!」
90年代から世界中を引っ掻き回し多くの人々に首を括らせたヘッジファンドは、2004年に日本がフルボッコにするまで暴れまくるのだが、それはまた別の話だ。
ヘッジファンドは、1992年、ポンドをERMでの高い価格で数ヶ月後に売る先物契約を大量に結んだ。
そして9月、一気に手持ちのポンドを売りまくり、ポンドを急落させた。
急落したところで今度はポンドを買い戻し、事前に結んでおいた契約通りの値で売る。当然、そこには高かったときの通貨の額と急落した実際の額との間で差額が生じる。それが儲けとなるのだ。
例えば、9月に1マルク=2ポンドだったとし、そのレートが続く前提で10月に100ポンド売って50マルク買う契約をしておく。そしてポンドを売り浴びせて急落させ、10月のレートが1マルク=10ポンドになったとする。
そこで、今度は50マルクで500ポンド買う。
すると、本来10月のレートでは50マルクは500ポンドの価値があるにも関わらず、契約は契約なので、50マルクの交換が100ポンドだけで済む。よって400ポンドが余るわけで、これが利益となるのだ。
こうしてヘッジファンドによりポンドは大暴落した。
「うわあぁぁぁぁ!!なんだこれ!!??」
イギリスは当然パニックになる。とにかく、変動幅が固定されているため金利を大幅に上げて通貨高に誘導しようとしたが、ヘッジファンドには勝てなかった。
結局、イングランド銀行は敗北を宣言し、イギリスはERMを脱退。
1995年まで下がり続け、これをポンド危機という。
通貨危機は飛び火する。
翌年、同じように実態経済と通貨価値が釣り合っていなかったフランスのフランも暴落し、南欧諸国も引きずられた。
スウェーデン・クローナも大暴落を起こし、壊滅的な被害を被った。
ポンドやクローナが維持されているのは、この苦い記憶があるからだ。
アルレシアはドルとの固定相場制であり、石油や工業品の輸出が盛んなため、むしろ実態経済のわりに通貨が安いという立場だった。
そのためヘッジファンドの攻撃対象にはならなかった。
しかしポンドの下落は、相対的にアルレシアの通貨高をもたらす。
イギリスはポンド下落によって輸出が伸び、危機になった割りに経済が回復するという事態になり、ここにきてようやく不景気を脱した。
アルレシアはイギリスにEU市場での輸出を押され、ますますヨーロッパ離れが深刻化することとなる。
「アメリカ〜」
「なんだいアルレシア…っていた!!なんで殴るんだい!?」
「全部てめえのせいだ」
こうしてアルレシアは冷戦のバランス外交とヨーロッパ志向政策を同時に転換させられることとなり、アメリカ、東アジア政策へと舵を切るのであった。