″必要″−2


どこか自分と似たような境遇でありながら、よりストレスの多い環境であろうとは分かっていた黒尾だが、伊吹の抱える感情を完全に理解することまではできなかった。
自分と比べて不器用な伊吹が、他ならぬ自身の扱いすら苦手だったとは気付かなかったのだ。それは、伊吹がよく人のことを見ていて、人が嫌いなくせに誰よりも正しく他者を評価できるからだ。その力を監督たちが認めていたため、黒尾も伊吹がいつの間にか限界だったことに気付けなかったのである。


兆候はあった。

梅雨に入って、伊吹の目元に隈がずっとできていることに気付いた。それとなく聞いてみたが「なんでもねっす」としか返さなかった。
普段、確かに人を近付けない伊吹だが、話し掛けてきた者にいきなり邪険にすることはなかった。それが、海に話し掛けられて「あ?」と凄むように返したという。

そしてある日、昼休みに職員室に行くと、数学の教師が黒尾のところに話し掛けに来た。何かと思えば、伊吹が授業に身が入っておらず、小テストも芳しくないとのことだった。中間で学年1位だったため、心配していた。

ちゃんと聞かないといけない、そう思ったときには遅かったのだろう。

黒尾が放課後、部室に入ると3年はまだ来ておらず、1年と2年だけが着替えていた。その中に伊吹の姿がない。


「伊吹は?」

「先にドリンク用意するっつって準備しに行きました」


答えたのは山本、ソフトモヒカンの不良然りとしたヤツだが、案外気の利くいいヤツだった。面倒見の良さは妹がいると聞いて納得した。
教えられた通り体育館に先に向かうと、床にドリンクの粉末が散らばっていた。それを伊吹が濡れ雑巾で拭いている。


「うお、どした!?」

「あ……すんません、袋開いてるの気付かなくて、しかも逆さまに持っちまって……すぐ片すんで、」

「掃除機持ってくるから待ってろ」

「、すみません、」


顔色があまり良くない。梅雨を控えて気圧が低い日で、どんよりと空は曇っていたが、そのせいだろうか。
黒尾は急いで備品室から掃除機を持ってきて一気に吸い取り、残ったものを伊吹が拭き取った。雑巾を持つ伊吹の悔しげな表情に、なんと声を掛けようか躊躇った。


結局何も言えないまま部活が始まった。その後は伊吹も目立ったミスこそなかったものの、ボトルを気づかず蹴り倒してしまったり、記録を間違えて監督に指摘されていた。
どう見ても調子が悪い。休ませた方がいいと、黒尾は部活後に部室で伝えようと思っていた。皆がいる前で言うと気にしてしまうから、2人になったらだ。


その部室に入ってロッカーで着替えを始めると、3年が自主練をせずに帰ってここにいないのをいいことに、山本が夜久に楽しそうに話し掛けていた。


「夜久さん、なんでうちは女子マネいないんですか?」

「単に来なかっただけだろ。つか、朝倉がいるからいいだろ」

「そうですけど……やっぱ女子マネっていいじゃないですか。女子にやってもらうってのが!ぶっちゃけマネは1年でもできるし、女子が癒してくれるわけでもないならマネはいなくても……」


常々、山本は伊吹のサーブやスパイクを褒めていて、マネージャーなのが勿体ないと言っていた。本人は、マネージャーではなく選手になって欲しいというニュアンスだったのだろう。

しかしそれが、伊吹の最後の防衛ラインだった。


ガタ、とロッカーの扉が音を立てる。少し大きな音に全員の目が向いた。そこには、ロッカーにもたれるように蹲る伊吹の姿。
倒れたわけではないようだが、伊吹の背中は大きく引き攣るように動いている。


「なっ、おい、朝倉!?」


夜久が慌てて駆け寄り、黒尾もすぐにそばにしゃがんだ。
荒い呼吸は苦しそうで、すぐに黒尾は見当が付いた。


「過呼吸だ!山本、そのコンビニの袋貸せ!」

「あ、うす、」


呆然とした山本から、コンビニの袋をひったくって中身を床にぶちまける。空にしたそれを、伊吹の口元に宛がった。


「息を吐け、大丈夫だから」


背中を摩って声を掛ける。夜久は黒尾が持つ袋の取っ手と反対を持って支えた。
海はすでにコーチを呼びに部室を出て行った。研磨たち1年はどうしようもできず心配そうにするしかなかった。
息を吐けず、ヒュッと荒く息を吸うことしかできない伊吹は、苦しさから弱々しく黒尾のシャツを掴んだ。縋るようなそれを握り返すと、夜久が背中を摩るのを代わった。


「大丈夫だから、落ち着け。俺がついてる」


必死で頷く伊吹。やがてだんだんと落ち着いてきたのか、呼吸のペースがゆっくりになってきた。しっかり吐けるようになり、思いのほか早く回復してくれたようだ。

伊吹は黒尾にそっともたれ掛かってきた。この期に及んで遠慮がちなそれに、黒尾はしっかりと抱き締めて返した。

その後、コーチが来る頃には伊吹は立ち上がれるようになり、フラフラとしていたが大丈夫そうだった。コーチが送ることを断った伊吹に、黒尾は見送りを申し出る。


「俺が送ります」

「や…そんな……」

「悪いな、頼むぞ黒尾」


断れない空気をつくるのは得意だ。伊吹はまだ涙目だったが、渋々頷いた。



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