銀座は春、A3出口にて−2
「……なんか、最近疲れちゃったんですよね」
「引っ張りだこだから?」
「それもあるけど、なんか、俺何やってんだろって、ふと思うんです」
及川はそう言いながら窓に指を触れ、眼下を見下ろした。「時計、見えないじゃん」と南を見て呟く。
「時計……あぁ、和光な。東銀座とか新橋方面からじゃないとほぼ見えねえぞ」
「どうせなら四丁目交差点のリストランテ行きたかったのに」
「主催がこのブランドなんだから仕方ねえだろ。つかお前、モデルのくせに俺を前にして時計のことかよ」
確かに、銀座といえば四丁目交差点にある時計屋のネオルネサンス様式の建物と時計台が有名だ。美しい建物は見れたらいいとは思うが、今言うことだろうか。
「だって俺のこと興味ないでしょ」
及川はいつの間にかタメ口だった。年の差も大したものではない、伊吹は気にしないし、恐らく及川はそれを察しているから砕けている。
「まぁな」
「広告会社とメディアに作られたお膳立てに乗ってるだけの人気だって思ってるんでしょ」
「いや。お前が映ってるCM、1回しか見たことねえ。日本のメディア嫌いだから」
「西洋かぶれ?」
「俺が一番好きな国はアゼルバイジャンだぞ。どこの世界にそんな西洋かぶれがいんだよ」
「はは、ウケる」
及川は軽く笑うが、すぐに真顔に戻った。そして溜息をひとつ。また、ガラスが曇ったが、伊吹よりも広く曇っていた。まさか体格の差だろうか。
「……他人のことが嫌いになって、社会のことも嫌いになって、日本にいるのも嫌になって。でも、人肌恋しくて、1人は嫌で、誰かと話したくて。なんか、そういう情緒不安定な感じが続いてるんだよね」
確かにこの国の閉塞感は嫌になる。自分たちで自分たちの国をヨイショするテレビ番組など吐き気すら催した。それでもここは紛れもない母国で、結局あらゆる自身の価値観はこの国で育まれたものだった。そんなストレートではない感情は、ひとつの母国愛なのかもれない。
「ふーん。なにそれ、誘ってんの?」
とはいえ、おもむろに語り出すのが鬱陶しくて、伊吹はぐいっと及川に詰め寄った。及川は驚いてのけ反るが、その逞しい胸板に手を置いて至近距離から仰ぎ見る。
「相手しようか?」
「…っ、っ!?」
こういうことに不慣れでもないだろうに息を詰めるのは、伊吹の匂いを感じたからだろう。
「…、どこの香水?」
「ただのディオールオムの。立食パーティーだからな、夕方に腕につけた」
「普通腕じゃないの?」
「香水は朝なら足首が原則。夕方に付け足すとき、ディナーが座食なら腰から上には付けねえのがマナーだ」
香水は血液に乗って循環し、その人独自の匂いとなる。朝は足首、昼は腰、夕方は腕と徐々に高くしていくのだ。
ディナーが座食か立食かで付ける場所は異なる。
「さすが……」
「まぁな。で?勝手に隣でセンチメンタルやりやがった及川クンをお兄さんが慰めてやろうか?」
言外に鬱陶しいと告げてやれば、及川はキョトンとしたあと、苦笑した。
「サバサバしすぎでしょ……さっきの会場での感じと全然違うじゃん」
「こっちがホンモノ。まっ、あんま考え詰めても意味ねえぞ」
伊吹はそう言って窓から離れる。ニヤリと笑って振り返り、気の抜けた表情をする及川を見遣る。
「食事も景色も芸術も、本物に触れないといけねえ。本物にこそ価値があるし、教養は本物を知ることそのものだ。お前は、どれだけ本物の価値を見てきた?」
「……本物、」
「その次は、本当に価値のあるものは何かってことを考える。何かに価値を見出すんでもいい。それは、人によって違っていいモンだ」
価値と一言で言っても様々だ。まずは本物を見て、価値のあるものをたくさん感じる。そして次に、本当に価値のあるものとは何か、自分なりの答えや意見をつくる。その上で、自身にそうした価値を与えるのだ。
それが、教養というものだ。
「夜も秋も盗めないし、空も恋も騙せない。価値ってそういうモンじゃねえかなって、思うときがある」
「……そんなこと、考えらんなくない?日頃さ」
「24なんてまだまだだろ。俺もな。年食ってから人生本番だ、それも終わらねえ本番。これからでいんだよ」