騒がしい朝に−2
そう言うと、リエーフは伊吹を正面から抱き締めた。すっぽりと腕に閉じ込められてしまい、視界はすべてリエーフのシャツとベスト、ネクタイだけになる。温もりと清潔な匂いのせいか、朝の疲れもあって、伊吹は思わずすり、とリエーフの薄い胸板にすり寄ってしまった。
「あー…伊吹さん、ちょっと、そういう可愛いことあんましないで欲しいんスけど」
「は?」
そう、よくリエーフは伊吹のことを可愛いと抜かす。リエーフの下手くそなレシーブを特訓してやっている、3年の夜久衛輔は、伊吹よりも小さいLであるが、リエーフ的には夜久は可愛いわけではないらしい。まぁ実際夜久はあまりに男前な性格をしているので分かると言えば分かる。
「てか伊吹さん、相変わらず美味しそうな匂いしますね」
「パンの匂いだろ」
すんすん、と頭上でリエーフが伊吹の匂いを嗅いでいる。最初は嫌だったが、今ではもう慣れた。伊吹は現在、血縁で言えば叔父の家に住んでいるのだが、その家はパン屋をやっているのだ。吉祥寺のおしゃれなイートイン付きのパン屋で、おかげで伊吹の服にもパンの匂いがついてしまうことも多かった。よく朝に仕込みを手伝っていることもあり、制服が一番匂いがついてしまう。
「今日、寝坊して朝飯食いっぱぐれたんスよぉ。だからめっちゃ腹減ってて…」
「ふーん。クソどうでもいいわ」
「だから伊吹さんのこと食べちゃっても仕方ないですよね?」
「それはおかしい」
何を言っているんだこいつは、と伊吹が呆れた直後、リエーフは上体を屈めて、伊吹の首筋に噛みついてきた。暖かい吐息と歯の硬い感触、そしてぬめりとした舌。
「ひっ、ん、てめぇ何してんだおい!」
つい変な声が漏れて、伊吹は思い切りリエーフの薄い腹筋のついた腹に重い拳を入れた。空手黒帯の腕は落ちてはいない、リエーフは呻いて口を離した。
ただでさえ目立つ巨体がこんな会話の末に実際に噛みついたのだ、周囲の大人たちはドン引きしている。当たり前だ。当の伊吹が一番引いていた。
「だってマジで腹減ってて…」
「それで噛みつくヤツがどこにいんだよこのドアホ!夜久さんに言いつけるかんな!!」
そうリエーフに脅しをかけたところで、電車は中井駅に到着し、多くの人を下ろしてからまた人が少しだけ人が乗って来た。もうくっついている必要もない程度に車内は落ち着いている。
「おや?伊吹とリエーフじゃん」
すると、低く綺麗な声がかけられた。私鉄から乗り換えて来た黒尾鉄朗だ。身長187センチ、同じく音駒高校バレー部のMBで、部長をしている。飄々とした性格のいけ好かない先輩である。隣には幼馴染で伊吹と同じ学年のセッター、弧爪研磨もいる。プリン状態に染めた髪のままでいる目立つ外見だが、ゲームばかりしていて会話には入ってこない大人しい男子だ。
「っす。研磨もおはよう」
「…おはよ。電車大変だったでしょ」
「死ぬかと思った」
「おれだったら休む」
黒尾があまりにも研磨研磨とうるさいため、部活内では下の名前で呼ばれていた。意外にも研磨も他人を下の名前で呼ぶ癖がある。低温な冷めた性格であることもあって、研磨は常に静かだ。一方で黒尾は悪ふざけが好きな普通の男子といった感じだった。
研磨はやる気に溢れるようなヤツでは間違ってもないため、黒尾に引っ張られる様をよく見る。
「伊吹、な〜んか不機嫌じゃんね?どうかした?」
その黒尾は、高い位置から見下ろしていたのをぐっとこちらに顔を寄せて覗きこんでくる。よく黒尾はこうして話しかけてくる。言外に背の低さをからかわれているように思っていたが、黒尾なりにきちんと目を合わせようとしているらしいと気付いてからは気にしていない。