第一話: The Azure Sky is already dead−4


1年9か月前、東京都目黒区・目黒駐屯地。


第二次中印戦争の勃発によってシルクロードショックが世界経済を直撃し、日経平均株価が3000円もの下落を記録した恐慌の日から数日が経ったときのことだった。
世界がどうなろうと、7月の東京はいつもと変わらず刺すような暑さで、都心の駐屯地の古い建物は空調も微妙で過ごしづらい。

ニュースは連日ようにインドと中国の戦争と第五次中東戦争のことを報じていたが、当時はこれが第三次世界大戦になろうとは誰も予測していなかった。


くっきりとした青空の下、ビル群の向こうに入道雲がそびえたつ空を薄暗い室内から見ていた伊吹は、爽やかな夏空と陰鬱な部屋との対比があまりに鮮烈で目を細めてしまった。

いや、部屋のせいというよりは、伊吹自身のせいだろう。

回らない思考でぼんやりとそんなことを考えていると、おもむろに部屋のブラインドが閉じられる。さらに部屋は暗くなり、息が詰まりそうな12畳の部屋でパイプ椅子に座る伊吹は、リノリウムの床にブラインドの隙間から漏れる淡い光が跳ね返るのを見ていた。


「あまり外から見える位置にいないでいただきたい」


監視役の陸尉に言われ、「はい」とだけ答える。そこへ、扉がノックされてスライドする。入ってきたのは牛島だった。監視役は牛島を部屋に入れてから廊下の扉の前に戻る。部屋には伊吹と牛島の二人となった。


「……俺、牛島さんの三倍の魔力量だそうです。戦略核兵器1億発分になるって。バカみてぇっすよね、なんすか1億発って」


自嘲気味に言いながら、伊吹は顔を上げられない。先ほど測定された魔力量の推計値はあまりに大きなもので、回復する分を考えれば、伊吹は世界を何度も滅ぼすことができるだけの力を持っていた。インフレしているかのような数の使い方はまるで小学生だ。それが現実であることが、まさに滑稽であるとすら思えた。

牛島はパイプ椅子に座る伊吹の隣に立つ。雲が太陽を隠したのか、ブラインド越しに入ってくる光は急速に少なくなる。部屋の外と中の対比がマシになったことで、むしろ部屋は明るくなったかのように錯覚する。


「…伊吹」

「ティクリートのこと、聞きました?衛星写真で完全にティグリス川と一体化してる湖がクレーター跡らしいっすよ」

「…伊吹、」

「死者は少なくとも11万人、何千人も連絡が取れてねぇって。9割以上は民間人で、どの国も核兵器じゃねぇかって訝しんで、世界中噂になってます」

「伊吹」

「そりゃ不気味っすよね、あれだけのことをあと1億回もできるんすから、俺は言葉通り『ティクリートの怪物』なんすよ」

「伊吹!」


次第に語気を強めるように窘める声で呼んでいた牛島はついに怒鳴るように声を出した。伊吹は言葉を止めて、ようやく、牛島を見上げた。伊吹の瞳を見た瞬間、牛島は息を飲む。


「…俺、もう、人間じゃ、ねぇんすね……」

「っ、伊吹、そんなことは、」


牛島は咄嗟に否定したが、伊吹は思い切り立ち上がってパイプ椅子を蹴倒す。床に倒れた椅子は大きな音を出すも、廊下から監視役が入ってくることはなかった。これくらいは珍しくなく、伊吹は初めてティクリートの惨状を聞いたときや死者数を知ったときも同じように取り乱していたそうだ。その記憶はあやふやだった。


「そんなことはないって?!俺のどこが人間なんすか!?俺のことを知った連合国は俺を有する日本を裏で警戒して、日本政府は俺のことを持て余して「怪物」と呼んで隔離して、最終的には国防軍に入って人間兵器だ!!人を大勢殺すことができるから大勢殺しても許される軍隊で預かるなんざ、そんなんそれこそ核兵器と一緒じゃねぇか!!」


牛島の胸倉をつかんで、はるかに高い位置の凛々しい目を睨んで、びくともしない体幹に渾身の力を込めてぶつかる。それらをすべて牛島は受け止めるが、しかし言葉はなかった。

いつしか胸倉をつかみ上げる手からは力が抜けて、牛島にもたれるようにして立っていた。襟元を掴んでいた手は牛島の胸元を弱弱しく縋るだけで、体のどこにもまともな力など入っていやしなかった。
牛島はおずおずと伊吹の肩に手を置いて、ぎこちなく抱きしめようとしてくれるが、その優しさが、あまりに痛かった。


「……俺は、誰もが人として生きられる社会に貢献したいと、そう思ってキルクークに行きました」

「…あぁ」

「……でも、俺自身が、もう人じゃねぇのに、そんなことできないじゃねっすか……」

「…、」

「…怪物としての俺に求められるのは、生体兵器として、人を殺すことなんすよね」

「……そんな、ことは……」


牛島は簡単に嘘をつくことができない。軍属に下るとは人を殺す可能性があるということで、伊吹が国防軍に入るのはなおさら、この力によって敵を効率的に殺せる兵器に「成り下がる」ためだった。


「……牛島さん、」


伊吹は牛島にもたれながら、そっとその精悍な顔を見上げる。牛島もまた、弱り果てた顔をしていて、それもすべて伊吹のせいだった。


「……殺してください」

「ッ、伊吹、」

「殺してください、もう、もう…いやだ……」


縋りついて絞り出した声があまりに細く、牛島の手はぴくりと震える。そして、同じように震える声が落ちてきた。


「そんなことを言わないでくれ…伊吹……」


それに返すことができなくて、伊吹も、牛島も、薄暗い部屋にたたずむことしかできなかった。


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