第三話: Qutadğu Bilig−7


ここにいてはいけない、そう思って立ち上がり、力が入りにくくなってふらふらとする膝を叱咤しながら、近くの階段に降りた。
その石階段は海へと続くもので、鳥居の下にある階段の先は波が打ち寄せている。その波の先には、海面から大きな灯籠が生えるように立っており、背景には崩落した関門海峡大橋が見えていた。遺体はこの階段から運ばれたのだろう、石段は濡れていた。

入水自殺をしようと思ったわけではなく、安定する姿勢で座りたかっただけだった。しかし、力が入りにくいためか足を踏み外し、体が傾いた。声も上げられずに視界はぐるりとして、石段、海、灯籠、橋、鳥居、空というように一瞬で視界が動いたが、突然強く体を支えられた。前髪が目にかかりながらも見上げると、やたら綺麗に整った顔ながら雲南より20センチほど背が低い紺色の迷彩服の兵士がいた。
この兵士に雲南は支えられたらしい。


「っ、すんません、」

「いえ、足捻ってませんか」

「はい…」


雲南は返事をしながら石段に座り込む。合わせて、兵士も支えてくれた。胸元には階級章と名前がアルファベットで書かれていた。


「…特殊兵科連隊、少尉?」

「連合軍統一特殊兵科連隊第二中隊所属、朝倉伊吹といいます。少尉です」


連合軍という響きは聞き慣れず、国防軍から連合軍に派遣された兵士なのだと少し遅れて理解した。伊吹は雲南を支えながら一緒に座ったため、石段に膝をついている。そして横向きに雲南を見つめた。


「…先ほど、様子を見ていました。足取りがふらついていたので念のため控えていたんですが…」

「…案の定、やったわけですね。お察しの通り、家族です。連絡受けて別府から来ちょるんですけど…分かっちょったけど、やっぱ、きちぃ」


東京でそれなりに長いこと生活していたため、こうして九州で標準語を話すとかなり方言が出てしまう。東京ではかなり標準語で話せていたが、それでもふとしたときに方言が出た。九州で標準語の者と話すときと、東京で大分弁の者と話すときでは、前者の方が訛りが出るような気がする。


「……当然です、何もおかしいことじゃない」

「…あんた、ずいぶん若いのに連合軍おるんですね。国防軍の人らが、若いのがみんなやられちょるっち言っちょったけど、しっかりしちょるんですね」


先ほど国防軍の者たちが話していたことを伝えると、伊吹は苦笑した。若いのに平然とこの場にいてすごいことだ、ということを世辞もかねて言った雲南だったが、その苦笑の仕方は見惚れるほど綺麗で、しかしひどい苦労を感じさせる苦しそうなものだった。


「平気ではないですよ。海峡内の捜索にこうやって加わるまでは、門司港の方で救助活動をしていましたけど…多くの遺体を、特に子供のご遺体を見て、いろいろと思い出してしまって」

「思い出す…?」

「前までは中東を転々としてたんです。いろんな国で子供の遺体を見ました。でも、こうやって日本で日本人の子供を見て、初めてこんなに苦しい感情になって、そんな自分がひどい存在だと、より苦しくなりました」


やたら大人びたというか、恐らく雲南とそう変わらない年齢のはずなのに苦労がにじんだ顔をしているのは、そういう仕事柄なのだろう。苦しかった、と素直に告げた顔は、本当にひどい感情になったのだと窺わせたが、しかし少し晴れたようでもあった。


「今は、励まされてなんとか奮い立ってます。仲間のおかげです」

「なるほど…」

「あなたは、」


伊吹はそう言って、再び雲南の目をじっと見つめた。よく目が怖いと言われる雲南だが、伊吹の瞳に見つめられ、目を瞬かせてしまう。


「…あなたは、そういう誰かがいますか。ちゃんとそばにいてくれる人はいますか」

「…ッ、」


その声は淡々としていたが、しかし確かな感情が乗っていた。恐らく、もしここで雲南が一人だと告げれば、なんとかするための手立てを用意している。それは行政によるカウンセリングのような支援だろうが、同情ではなく、ただ、確実に雲南の心を助けるために合理的な方法を探ろうとしてくれているのだ。それはただの心配や同情による言葉より無機質なようで、ずっと暖かかった。
人を守ることができる、そういう力を持った人間の強さだ。

言葉に詰まった雲南に、伊吹はこれを答えなくてもいい質問だと考えているようで、続けて口を開いた。


「誰もいない、ってわけじゃなさそうですね。頼れるかは別なんでしょうが、それなら俺からはひとまず案内しないでおきます。今はそれどころじゃないでしょうし」


雲南の頭には確かに、猯や高校時代の友人たちの顔が浮かんでいた。近所の人もそうだ。何より猯がはっきりと「一人じゃない」と言ってくれていた。答えられなかった雲南ではあったが、伊吹はそれを察している。
そのため、伊吹は立ち上がって話を切り上げる素振りを見せながら、風によって目にかかった雲南の前髪をそっと払いのけた。フィンガーレスの革手袋から覗く指先は綺麗だが、銃を握ってきた豆や荒れた指の腹が見えた。


「俺は、あなたや、日本国民のために戦っています。戦争が終わったら、世界の平和に少しでも貢献できるように努力を続けます。一度こんな戦争になってしまえば、もう元のように世界が戻ることはないでしょう。でも、俺はこんなことをもう起こさないようにしたい」


指先を離して、見えやすくなった伊吹の顔を雲南は見上げる。その柔らかい表情は、本心からの覚悟を滲ませていた。


「誰かがあなたの幸せを、心の安寧を願って努力を続けていることを忘れないでください。少なくとも俺は、あなたのような人のために生きてる。なので、あなたは俺がいる限り一人にはなりません。だからどうか…どうか、生きてください」


生きてください、その言葉の裏には、多くの生きられなかった人たちを見てきたからこその思いが感じられた。会ったばかりの一介の兵士と雲南の接点などこれっきりだろう。それでも、自分のことをこれだけ本気で生きていて欲しいと願ってくれる人がいることに、救われたのだ。



それから大戦が終わると、伊吹の存在はIMAによって事細かに公開された。魔法なんてものが存在していたことへの驚きは実は雲南にはそうなかったのだが、伊吹の経歴を見て、あの言葉に納得した。

しかし同時に、これだけ優しい伊吹に対する日本や世界の扱いに強い憤りを感じたのも確かだった。世界の平和を願って生きてきて、あのとき雲南に本気で「生きて」と言ってくれたような優しさを持つ人物なのに、こんな目に遭わされているのかと、雲南はいつしか「今度は自分が」という考えになっていった。

伊吹が雲南を含む世界のために生きると言ってくれたのだから、雲南も伊吹のために生きてみようと思うようになった。それが、VASNAに入った理由だったのだ。


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