第三話: Qutadğu Bilig−8
トルコ共和国・イスタンブール市ベリオール区。
ガラタ橋に通じる大通りの下をくぐる地下通路は、車通りの多いガラタ橋の手前で車を止めないよう人が通るための道だった。この通路は地下通路というより、陸橋の下を通る橋桁の通路のようなもので、両側の抜けた先にある小さな広場には露店や船着き場があった。
そんな通路はトイレやATMもあるため警備員もいるものだったが、人で混み合うそこを桐生と臼利は一般人にバレないよう警戒しながら歩いていた。
臼利は180センチあるものの、少し前を歩く桐生はさらにでかい。厚みも違うのは、桐生が消防士をしていたということもあった。臼利は小綺麗な顔をしていると言われるようだが、これでコンビナート勤めのゴリゴリの体育会系だった。
「…臼利、様子はどうちゃね」
「まだ尾けちきちょります。撒きます?」
「いや、国防軍のスパイなんやとすりゃ無理ちゃ」
桐生がそう答えたときには通路を抜けており、夕暮れの深いオレンジ色が古い街並みを照らしていた。海の反対側にもぎっしりと建物が埋め尽くす街並みが見えており、ガラタ橋の向こうにはアヤソフィアの尖塔とドームが聳えているのが影となって見えていた。
「はえーけど晩飯食っちから夜を待つ。んで、ギュルハネ公園で迎え撃つ。人いやんけん喋りやすい」
「なるほど、静かやけどすぐ近くはトプカプ宮殿ですけん戦えねぇっちわけですね!」
戦えないが喋ることはできるという状況で迎え撃つ。向こうは許可なく主権国家内で軍を活動させているのだ、おおっぴらにできない。ならば、こちらに利があった。
やたら自分を慕ってくれる高校時代の後輩とともに橋を歩いて渡りながら、桐生は緊張で心臓を大きく脈打たせていた。へまは許されない。もしこの街で桐生が養成した人材が欧州に渡ることができなくなれば、計画に支障が出る。
そうして、トラムのスルタンアフメト駅近くにあるファーストフード店までわざわざ歩いて行って時間を潰し、そこで夕食を取り終わる頃には、もう夜の帳が降りていた。
店を出て臼利に視線を向けると、臼利は心得たように頷く。
「スパイ2名、こっちに向かっちょるのを確認」
「よし、ギュルハネ公園行くちゃ」
臼利の可視化魔法によってスパイの位置は特定できている。そもそもスパイに尾行されていること自体、臼利がベリオール区全体に張り巡らせたロシア製の魔力探知機によるものだった。スパイによる地区全体の可視化魔法による捜索を感知したことで、二人は監視されていることに気づいていた。
ただ、VASNA本部から国連と国防軍による諜報活動が始まった連絡を受けていたため、大都市であるイスタンブールにいる二人はもともと警戒していた。猯たちにも警戒するよう言っておくべきだったかもしれないと思ったが、そういう連絡そのものが危険に晒してしまうことや、すでに魔法兵器はトルクメニスタン領内を移動中であることから控えていた。
一大観光地である通りは夜になると途端に人が少なくなる。閉館が早いためだ。
ライトアップされたスルタンアフメトモスクとアヤソフィアを右手に見ながら、イスタンブール地下宮殿を通り過ぎてジャフェルアー神学校も抜ければ、正面にはギュルハネ公園が見えてくる。
順調に後ろからスパイたちもついてきているようで、緑豊かな広大な公園に入ったことで向こうの警戒も高まっていることだろう。
園内はきちんと街灯によって照らされているため死角こそないが、とにかく人がおらず、たまにすれ違うジョギングをする男性や犬を散歩させる老人がいる程度だった。
ただでさえ人がいない公園内の大きな道を逸れて小道に入ると、公園の木々の向こうにトプカプ宮殿の建物がいくつか見える。明かりがついているのは事務所だろう。
その明かりが僅かに見える小道のベンチに差し掛かったところで、桐生は立ち止まった。臼利に目配せすれば、見慣れた少し後ろの数センチ低い位置の目線と合う。
「頼む」
「はい!」
臼利は元気よく返事をすると、可視化魔法によって向こうの位置を正確に把握すると、そのスパイと目を合わせた。これによって向こうもこちらが気づいて待っていることに気づいていることだろう。
ここで逃げるようならそれまでだが、やはりそうはならなかったようだ。
「接近中。会敵します」
「防御も俺の担当やけん、安心しちょれ」
「八さんの隣で安心できんかったことねぇッス」
「…あぁ」
いつも通りの臼利の言葉に少し安心する。
その次の瞬間、茂みの影から二人の男が姿を現した。