第三話: Qutadğu Bilig−14



「…ま、責任取れってのは理解できるし、取ってやらなくもない」

「…伊吹?」


すると伊吹はそんなことを言い出した。牛島は怪訝な顔をする。伊吹が負うべき責任などないのはこの場にいる誰もが分かっていることだ。


「俺たちにはとにかく情報がない。そんで雲南と猯にはもう後がない。この状況じゃ捕まるしかねぇって分かってるだろ」


外がどうなっているか、当然伊吹も理解している。伊吹と牛島は国防軍として身分を証明できるが、猯たちはそうはいかなかった。たとえ逃げおおせたとしても、顔が割れているため兵士としてVASNAで働くほかない。


「リニエンシーは世界じゃ普通だしな。あんたらには、VASNAの情報を提供してもらいたい。こっちのスパイとして」

「伊吹、何を勝手なことを言っているんだ」


リニエンシーとは自供による罪の軽減を意味するもので、協力すれば猯たちの量刑を低減させてくれるという。その内容はスパイをすること。


「…照島はもうやってる」

「バンコクからか」


雲南が聞くと伊吹は頷く。それを見て牛島は顔を険しくした。照島が伊吹に惚れて自主的にスパイを申し出たということだろうし、それは最近の照島の言動を鑑みれば理解できた。どうやら牛島は知らなかったようで、だんだんと怒りを沸かせているのが分かった。


「もし俺のために働きてぇって言うなら、勝手にこじらせたVASNAの指示と俺からの直接の指示、どっちが優先だ?」


ニヤリとして伊吹はそう言うと、雲南の頬をそっと撫でた。瞬間的に雲南の顔には赤みが差す。伊吹の魔性ぶりに猯は驚くが、雲南は即座に「あんたに従う」と述べた。


「別に罪が軽くならんでもいい、ただ、あんたの命令で動いちみてぇ」

「雲南お前、」

「お前もや猯、ここまで来ちょったら同じやけん、そんなら伊吹のために少しでも生きてぇ」


そう言った雲南の表情は久しぶりに晴れやかだった。いきなりスパイになれなどとめちゃくちゃだ。しかし、こんなにも生き生きとした雲南は本当に久しぶりで、猯はもうどうでもよくなった。雲南の言うとおり、ここまで来たらもう結果は同じなのだ。

それに、たった数分で雲南をここまで立ち直らせてくれて、しかも猯の心まで軽くしてくれた伊吹に、報いるべきだとも思った。


「…分かった。知っちょること全部話す。んで、しばらくスパイとして情報流すちゃ、これでええちゃね」

「あぁ。じゃあ俺たちはたまたまここで出くわした日本人観光客で、魔法を使って戦闘を行った5人が最後に自滅して助かったって体裁で警察に保護されるぞ。いいな」

「ちょっと待て伊吹、そんな勝手が…」


なおも牛島は反対しようとしたが、伊吹はそれを制止する。


「決裁権は俺にあるって言ったの牛島さんっすよね」

「そうだが…」

「すでに照島で実績があります。今回の采配も、照島のリークを武田さんの情報として扱うことで決定しました」

「っ、もういい、このことは後でだ」


まったく知らない人物である牛島だが、なんとなく感情の乏しい人物であるような気がした。それがこうして苛立ちを見せていることに、初めて会ったのに違和感を感じる。恐らく牛島自身がこういう感情の衝突に慣れていないからだろう。
一瞬だけ伊吹は困ったようにしていたが、猯の方を見遣った。


「じゃあ孤立空間魔法解いてくれ。基本的に俺が交渉する」


それに頷いて孤立空間魔法を解けば、すぐに外の喧噪が地下に響いてきた。本当にスパイとしてこの男の指示で動くことになるのだ、と、その音が実感させた。



その後、計画通り伊吹が交渉して警察に保護され、事情を話して5人の男が逮捕されてしまえば猯たちは解放された。管理職らしい警察官は怪しんでいたが、何やら上から圧力があったのか、呆気なく解放された印象だ。恐らく国連か、日本や米国の政府だろう。支援を受けるこの国は強い立場ではない。
そうして猯たちは伊吹たちのホテルで一通りVASNAについて知っていることを暴露して、連絡手段を確立し、自分たちのホテルに戻った。監視されていたためか辻向のホテルだった。

知っていることすべてと言っても雲南と猯が知っている情報などそう多くない。やはり百沢や古森、佐久早が上級幹部としてかなりのことを知っており、実働部隊である猯たちや桐生たちはそう多くの情報を流してもらえていないのだ。
それでも伊吹の役には立ったようで、二人は礼を言われてホテルから帰された。これ以降は、猯と雲南はすぐにイスタンブールに帰ってVASNAとしての仕事に戻る。そしてそれを伊吹に報告することになっている。


見慣れたホテルの部屋に戻ってくると、まるですべてが嘘のようで、しかし雲南の晴れやかな顔にそれが嘘ではなかったと実感する。


「…にしてもあれちゃな、伊吹っち本当にハマるっちゅうか、分かるわ」

「あ?お前なんぞには100年早いちゃ出直せ」

「なーに言いよんちゃこの」


ガッと猯は雲南の顔をわしづかみにして、雲南もキレて猯の髪をぐしゃりとひっつかむ。
よく、高校時代から社会人になってもこうして取っ組み合っては言い合っていた。何をするにも競い合うライバルだったのだ。

それが途方もなく懐かしくて、すべてが狂ってしまったあの空爆の日から止まっていた時が再び動き出したように感じられた。
もうどうしようもないと思っていた。誰もが苦しんでいた。自分の無力さを痛感した。
しかし伊吹は、やはり助けてくれた。もう戻らない日々は寂しいが、しかし、未来がすべてなくなったわけではなくて、そして過去がすべて失われたわけでもない。

少なくとも、こうして古い友人とかつてのように取っ組み合えたことが、ずっと苦しかった猯の心に、まるで曇り空から指す日差しのように希望をもたらしたのだ。

そう理解した途端、猯の目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。声を出すことも嗚咽を漏らすこともなかったけれど、同じように瞳を滲ませた雲南もきっと、互いの顔がひどい有様だとすぐに分かったようで、二人揃って情けない笑いが零れたのだった。


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