第三話: Qutadğu Bilig−20


夜のバクー市街、カスピ海の海岸沿いに沿う大通りネフトチラール通りを西へと歩いていると、おもむろに侑が伊吹の手を掴んで左手に見えている公園を指さした。


「あかん伊吹!俺めっちゃトイレ行きたい!着いてきてぇ!」

「はァ?」


何を言っているんだこいつは、と思っているのは伊吹だけではなく、一緒に歩いている全員が胡乱な目になる。


「やって外国やで!?俺英語できひんし、お金入れないと入れへんとこあるやん、イスタンブールそうやったし!やから着いてきて!」

「…どこだよトイレ」

「さっき透視して、そこの階段降りてすぐんとこにあんの見つけてん」

「何魔法使ってんだ」


実際有効な使い方だと思ったのは内心に留めて置きつつ、確かに小銭を入れないとトイレを使えないことは欧州でもよくあるため、一応現金を持っている伊吹がついて行ってやるのは仕方ないとそれに応じることにした。


「先行っててください」

「りょーかい」


松川に言えば、松川は呆れたようにしながら頷いた。国際NGOにいた経歴を持つ伊吹が海外慣れしていることを全員知っているため、特に心配などもないようだ。
侑を伊吹に任せ、他のメンバーは先に地下通路の階段を降りて通りの反対側に向かい、サヒール駅のホテルへと別れた。
伊吹は侑に引っ張られて階段を降り、見えていた海沿いのプロムナード公園であるシーサイド・ブールバードへと入っていく。
風が吹き付けてくるため、侑の紺色の七分丈のジャケットがはためいた。白いスキニーパンツを締める革のベルトと、黒いタンクトップがジャケットの下に見えていた。

階段を降りてすぐ右手にトイレのマークがあったが、よく見れば特に小銭を投入する機械もゲートもなく、出入り自由な公衆トイレである。
そもそも税金すら取らない国なのだ、ここで端金を集めても意味がない。


「…おい、透視すりゃ金が必要かどうか分かってたよな」

「おん、分かってたし、なんなら別にトイレ行きたないし」

「…なんか話か」


侑は特にトイレに行こうとはせず、キョロキョロと辺りを見渡す。そして、公園の少し先に海へと突き出す小さな埠頭のようなものを見つけた。
「あっち行こ」と言って侑は引き続き伊吹の手を引っ張り、そこへと向かった。

船が停泊するための埠頭というよりは、単なる観光用の海上デッキだろう。ウッドデッキは公園から海(正確には湖だが)の上に突き出していき、横浜の大桟橋埠頭のように夜景を楽しめるスポットとなっているようだった。

しかし今は平日の夜である上に、特に風が強いのか冷たい風がカスピ海から吹き付けてくる。8月なのに少し寒くすら感じられた。
そのためか、人はおらず、公園内を歩いている人影も見当たらなかった。オフシーズンでもないのにこうも人がいないのは不思議な感じがする。いまだ独裁制の国ではあるが、税金もなく質の高い生活をしているため国民の不満はない。

デッキの上を少し進めば、バクーのカスピ海沿岸の夜景が見渡せるようになる。ここに来るのは初めてで、伊吹はついその夜景に息をついた。
公園に沿ってオレンジの街灯が並び、パリのような街並みが続く。その向こうには城壁で囲まれた旧市街イチェリ・シェヘルがあり、さらにその奥にある小高い丘の上にはフレイムタワーという高層ビルが3棟見えている。このビルは揺らめく炎を模したもので、曲線が特徴的なガラス張りの高層ビルだ。夜になるとこのビルは壁面全面がライトアップされ、燃えさかる炎などが投影される、まさに炎のタワーである。
火の国の都である風の街に相応しい。

その景色を眺めながら沈黙が落ちる。その間をカスピ海から風が吹き抜け、その強さと冷たさに夏なのに震えてしまう。ただ、寒いというほどではないためカーディガンで体感は十分保たれた。
すると、それに気づいた侑が柵に両手をついていたところを横向きになり、伊吹に体を向けた。左手だけ柵に緩くついて、カスピ海を背に伊吹の正面に立つ。侑の広い背中によって風が受け止められ、途端に体に当たる風はほとんどなくなる。
伊吹の背後にはオレンジの街灯とバクーの街並みがあるため、その光が侑の顔を照らし、風に揺れる金色の前髪が輝いた。


「…伊吹、なんかあった?」


どうやら侑は伊吹の様子に気づいていたらしい。月島に忠告されたのでバレないようにはしていたが、恐らく伊吹の隠す力よりも侑の察する力の方が優れていた。


「……牛島さんと喧嘩した。タシュケントで」

「へぇ、珍しなぁ」

「…俺は一人でも多く助けたい、そのためなら、敵をあえてスパイとして泳がせてでも情報が必要だと思った。だから俺の独断で、バンコクにいた照島や、タシュケントにいた雲南と猯をスパイにした。今回の任務もさ、元は照島が俺に情報リークしたから、こうして西アジアに分散したんだ」

「え、そうやったん?照島てあのチャラいやつよな」

「お前に言われたくねぇだろ」


くすりと笑えば侑も微笑む。そして、侑はそっと伊吹の乱れた髪を梳くように撫でた。


「ウシワカはあれやろ、独断でやってええことやないて怒ったんやろ」

「…正解。軍人として長いしな。もともと真面目だし…もちろん、牛島さんがまったく間違ってるとも思わねぇ。でも、VASNAに感化されたのかって言われて…」

「は?」


途端に侑はドスの利いた声になった。すぐに伊吹に対して言った言葉としてひどいものだと理解していた。


「牛島さんもすぐ謝ったけどな。でも、こういう衝突って初めてで…お互い、どうすりゃいいのか分かんねぇの。だから気まずくて」

「まぁ、お互い大人やしな。ずっとバチバチしとるわけやないんやろうけど、でも、伊吹にとってあん人とそうなんの、しんどいやろ」

「……しんどい」


そう、誰かと衝突することは生きていれば当然のことだ。しかし、伊吹は牛島とそうなったことはなく、また、そうならないようなコミュニケーションをお互いにしていたこともあって、ひどく動揺していた。牛島に心ない言葉を言われて、言葉の意味以上に牛島に言われたという事実に傷ついていた。
それでも大人であるため、もうその傷も大したものではなく、今はどちらかというとどうやって関係を直せばいいのか分からなかった。この話は置いておこう、ということで一致しているだけで、理解し合ったわけではないし折り合いもついていない。謝罪を要することでもない。とにかく微妙な状態になってしまって、それがつらかった。


「……やったら、俺ん部屋来る?」


そこへ侑はそう提案してきた。侑と昼神の部屋で寝るか、ということだろう。どこか低く艶のある声だったため、伊吹はつい視線を侑の胸元に留めてしまう。
日本では確かに牛島や及川を頼ってそうすることもあったが、それは大勢を殺してしまったときなど本当に精神的にきついときだけだ。基本的に伊吹のメンタルはそこまで弱くない。
それでも侑は「幸郎君も大丈夫て言うと思うし」と言って、伊吹の耳にかかる髪を払いながら耳をそっとなぞった。ぞわりとしたものが首筋を駆ける。


「っ、いい、大丈夫だ。逃げても向き合っても変わんねぇしな」

「…そっか。伊吹は基本強いもんなぁ」


侑は手を離してポケットに突っ込んだ。快活な笑みに戻り、ちらりとフレイムタワーの方を見遣る。なぜか息を詰めていた伊吹は、それをそっと吐き出した。


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