第一話: Natural Right−2
自分の居場所が世界のどこにもない、そう感じるときの「世界」とは自分が知覚できる範囲であって、社会や世間といった方が正しいものだ。
しかし今、伊吹に関しては文字通り「世界」から居場所がなくなりつつあった。このまま国防軍が伊吹をお払い箱とすればいよいよ行き場がない。ひっそりと隠居しようにも、伊吹の情報はIMAで事細かに明かされてしまっているのだ。そのうえ、VASNAやCHREUSによって襲われる可能性もある。それ自体は伊吹の脅威ではないが、落ち着いて暮らせる場所がなくなることを意味するという点では致命的だ。
さすがに民主主義国家である日本が殺処分などというものに応じるはずがないため、そこまでは気にしていないものの、国防軍からの除籍やスイスの国連施設への事実上の幽閉などは充分に考えられる。
ただ、日本政府にしても国防軍にしても、または米国や国連にしてもそうだが、伊吹が怒り世界を滅ぼそうとでも心変わりしてしまえば太刀打ちできないと理解しているだろう。それを恐れて、伊吹に対しては慎重な姿勢を見せるはずだ。
メディアで見るほどには伊吹を取り巻く環境は悪化していない。
しかし、そんなことは問題ではなかった。生きられればいい、なんていう生存権の次元だけで人が生きる時代ではない。社会が高度なものになるにつれ、自然権が包摂する権利も拡大され、「文化的な最低限度の生活」というレベルだけ担保されてもそれは苦痛であることに変わりはないのだ。
最近はこうした時勢もあって、伊吹は単純な訓練にはここのところ参加しておらず、もっぱら個人トレーニングなどに集中していた。そのため、ほとんどほかの隊員と会っていない。ミュンヘン空港でのこと以来、牛島は一度も伊吹のところを訪れなかったし、目線も合わなかった。
あっけないものだな、と心の中で軽く思おうとするのに精いっぱいだった。
そうして夜にこうしてベッドで何度もため息をついていると、おもむろに扉がノックされた。「いるぞ」とだけ返事をすると、扉の向こうから昼神の声が聞こえてきた。
「伊吹、俺。入っていい?」
「待ってろ」
伊吹は扉を開けてすぐに見上げる。20センチの差がある昼神の顔は遥か上にある。
覗いた昼神は心配そうな表情で、部屋に入るなり伊吹の腰を抱き寄せた。
「顔色悪いよ、眠れてないんでしょ」
「……分かるモンだな」
「分かるよ、伊吹のことだもん」
昼神は伊吹の目元をかさついた指の腹でそっと撫でる。眠れていないのは事実で、そろそろ隈ができているかもしれない。
「…牛島さんと何があったか、聞いていい?」
そしてどうやら、昼神はそこまで察しているようだった。近しい者なら当然気付く範囲だと自分でも思う。それくらい分かりやすく二人は距離が空いていた。
伊吹がひとつ頷くと、昼神はそっと伊吹をベッドに誘導する。そして先ほどまで伊吹がそうしていたように、ベッドの端に並んで腰かけた。左側に座る昼神とは、座っていても肩の位置が大きくずれる。それを利用して、昼神は伊吹の肩を抱き寄せていた。
「…もう知ってると思うけど。照島も、雲南たちも、全部俺が独断でスパイとして引き込んだ。もちろん、あいつら自身の罪が軽くなるってのも、特に桐生たちにはあるけど…一番は、情報が圧倒的に足りねぇからだ」
「テロに先回りするため?」
「あぁ。一人でも救うには、一分でも早く先手を打たなきゃなんねぇ。突発的で探知が難しく影響範囲が広い魔法は、どんな爆弾や銃よりも悪質な殺傷兵器になる」
「照島たちを見逃してスパイにしたから、俺たちはベルリンで先回りして被害を抑えられた」
魔法はとにかく事前に防ぐ手立てがない上に殺傷能力が高すぎる。だからこそ、情報を掴んでいかに早く先回りできるかがカギになる。
「でも牛島さんは、そういう勝手な行動や属人性の高い仕事を慎むように言ってきた。別にそれは間違ってねぇと思う。でも…」
「でも?」
牛島が何か間違っていたとは思わない。軍人として、大人として、許される範囲は超えてはならないし、たとえ命のためと言ってもダメなものはダメなのだ。かつて暴走した暴力装置が日本を第二次世界大戦に突き落としたことを、この国は一生忘れてはいけない。
「…でも、牛島さんは、タシュケントで『VASNAに感化されたのか』って。全員を救えるわけじゃないって」
「……へぇ」
「そんでミュンヘンの空港で、トイレで侵入してた照島に会って情報をもらってたんだけど、そんときに照島が俺にちょっとちょっかいかけてきて」
「は?」
「大したことじゃねぇ。でもそれを見た牛島さんは、『足を開くなら任務外でやれ』って言ってきてさ」
「……、」
「なんつか…ちょっと、さすがに、きつい」