第一話: Not in the Combat−4
それから1週間後、ついにトルコとイランによるクルディスタン攻撃が始まった。両国のクルド人テロによる死者はそれぞれ50人を超えており、国民感情も肯定的だった。米国はこれ以上の中東での面倒ごとは避けようと事実上の黙認をし、欧州も難民と収容されたテロリストをトルコがクルディスタン地域に移送することを黙認した。もちろん、米国と欧州のリベラル派は反対の声を上げたものの、それは届かなかった。
日本ではこの攻撃にともない、当然PKOの撤退が取り沙汰されたが、イランのイラク領内での攻撃は国境地域に限定的で、遠く離れたキルクークのPKO部隊は留まることになっていた。ここまでは予想通りだったし、事実、キルクークは平穏そのものだった。イラクの人々は確かにクルド人への嫌悪感をある程度抱いているようだったが、それよりも貧困と進まない復興にいら立ち、また内戦を引き起こした民族・宗派の対立を避けようとしていた。
しかし、イランがシーア派を組織化してイラク国内で一大勢力を作り上げ、シリアでもヒズボラをはじめシーア派勢力が大きな力を持つ中で、次第にイスラエルの態度が硬化していった。
もともとイスラエルにとってすべてのイスラーム国家が敵国だ。だがそれは米国を介して米国の同盟国であるサウジアラビアやエジプト、トルコなど大国の間では表面化することはなかった。しかしトルコの船を公海上でイスラエルが攻撃した事件をきっかけにトルコとの関係は悪化したままで、シリアとはレバノンをめぐり何度も戦火を交え、レバノンのヒズボラはイスラエルへの越境攻撃を繰り返し、ヒズボラを支援するイランとは完全に敵対関係。そんな状況で、イランやトルコがシリア領内で「難民のため」と言って軍事基地を建設すると、イスラエルはついにこのクルディスタン攻撃を自国の直接的な国防上の危機であると判断した。
イスラエルは突如としてパレスティナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区を占領、半世紀以上にわたりシリアから占領したままのゴラン高原に展開し、シリアとレバノンへの侵攻を準備した。これによって、わずかに保たれていたイスラエルとイランの均衡が崩れた。
イランはイラクの共和国政府を事実上属国として扱い、領内を正規軍が通過、イラク北部からシリア、レバノンにかけてをほぼ直接的に支配下においてイスラエルとの戦争を開始した。トルコはイランを完全に支持し、ロシアもイラン側に立ってこの地域での影響力拡大と、この戦争における動向を用いて米国や欧州との対立をコントロールする作戦に打って出た。
ロシア、トルコ、イランの三か国同盟は「新悪の枢軸」と米国に非難されたが、その米国はこの段階に至ってもなお、経済制裁以外のことはしなかったのだった。
***
伊吹は初めて、戦争が始まった瞬間を体験した。
それはまったく静かで、日常的なものだった。
いつも通りホテルで起床すると、少しだけ街の雰囲気がピリピリとしているような気がして、テレビをつけた。英国のニュース番組にすると、トルコとイランによる国境侵犯を報じていた。これは事前に知っていたので驚きはなかったが、翌日、イスラエルによるパレスティナ占領とゴラン高原展開には驚いた。まさか、イスラエルがここで動くとは思わなかったからだ。
バグダードの政権はイランの支配下にあるらしく、この石油都市を完全に支配しようと軍が北上してきている。一応いつも通り学校へ向かったが、どことなくクラスも落ち着きがなく、特にクルド人とシーア派らしき子供たちが怯えた様子だった。かつての内戦で、彼らの同胞が過激派にどんな目に遭ったか知っているからだ。いつでも犠牲者は、子供と女性だった。
子供たちを宥めながら、伊吹はその日の授業を終えて校門に立った。すぐにやってきた国連の車に乗り込むと、運転席の牛島しかいなかった。
「あれ、木兎さんと及川さんは?」
「キャンプにいる。俺たちも、いったんホテルに寄って伊吹の荷物を回収してからキャンプに向かう。撤退だ」
「…は?聞いてねぇっす」
「すぐにNGOからも連絡が来るだろう。バグダードの政権内のスンニ派政治家たちがラマーディーに移って、スンニ派政権ができる。イランに操られた現政府と、サウジに操られたラマーディー政府とで内戦が起きることになる。バグダード政府はキルクークを掌握して資源を確保するつもりだが、同じ目的でクルド人の大部隊も集結し始めているし、イラン正規軍も接近中だ」
「…、イラン・バグダード政府VSサウジ・ラマーディー政府VSクルド人の三つ巴の戦いってわけか。ラマーディー政府はここまでは来ないとはいえ、北から来るクルド人と東・南から来るイランとバグダード政府の衝突だけで致命的っすね」