第一話: Not in the Combat−5


どうやら事態はさらに深刻化していた。米国はイスラエルを全面的に支援するようで、米軍を派遣しないまでも同盟国への働きかけはしたらしい。サウジアラビアはイランと敵対しているため、イスラエル側についたようだ。スンニ派が多いイラク西部の大都市ラマーディーに、バグダードのスンニ派の政治家を招いて政権を組織し、イラク軍のスンニ派部隊やスンニ派武装組織を使って実効支配を始めた。
バグダード政府は、西部の反乱に対応するために石油都市キルクークを何としても確保する必要があったが、ここはクルド人が支配的な地域でもあった。クルド人の大軍勢が迫り、バグダード政府と支援するイラン軍との衝突が避けられない様子となっていた。

結局、伊吹やNGOの努力は水泡に帰すらしい。どれだけ教育しようとも、政治家が戦争を起こしては意味がない。どれだけ国民が戦争を望まずとも、他国が侵攻してきたら戦争をせざるを得ないのだ。

ホテルに着くと、牛島は荷物を持つために一緒に部屋についてきた。すっかり家のように慣れたホテルは、すでに従業員たちが軍事衝突に向けて建物の補強などの準備や略奪を防ぐための地下金庫の設定を始めていた。道路は家財道具をまとめた車が徐々に目立つようになり、裕福な家庭から順番に安全な郊外へ逃れようとしていた。

部屋に着き、伊吹はすぐに荷物をまとめる。必要なものだけリュックに詰めて、捨てていけるものは置いていく。ふと、机に散らしたカリキュラムが目に入った。それを持ち帰ったところで何になるのか。同じデータはPCに入っているし、クラウドで日本からも閲覧できる。それでも、砂に汚れて皺のあるこのA4の紙束を、捨てることができなかった。


「…牛島さん」

「どうした」

「一瞬だけ、時間ください」


そう言って伊吹は、扉付近にいた牛島の正面に立つと、そっと額をその肩に乗せた。身長差が20センチあるため、鼻先が胸元の階級章に当たった。軍の迷彩服は体温を通さず、牛島の温度は感じられない。それでも、受け入れてくれている牛島の優しさが温度を持っているようだった。

伊吹が出会った人々のうち、どれだけの人が無事に戦闘を乗り切れるのだろうか。必死に多文化共生のために教えたことは、どれだけ子供たちが新たにこのイラクという国を築くために生かされるのだろうか。結局また戦争になったこの国で、伊吹は、何ができたのだろうか、何を為せたのだろうか。

やるせない思いの中で、つい牛島にもたれてしまうと、牛島はそっと伊吹の背中に腕を回して後頭部を撫でた。


「大丈夫だ。伊吹のやってきたことは、無駄じゃない」

「でも、結局戦争になりました。勢力が拮抗してるから、きっと何度も衝突します」

「それで終わりではないだろう。きっと子供たちは、戦争のあと、伊吹のことを思い出す。伊吹が教えてきたことは、いつの時代も正しいものだ。だから、彼らはきっと伊吹の教えをもとに復興に取り組む」

「そう、すかね」

「あぁ。どんな時代も、人は人を愛してきた。だからこそ、人は人であったんだろう」

「っ、…はい」


それは伊吹が授業の中で話したことだった。たまたま時間のあった牛島たちが見学していたときだったため少し気恥ずかしかったが、しかし伊吹にとって最も大事なことだった。
戦争は、人が人でなくなる。殺し殺され、町とともに倫理も破壊されていく。殺された人々も兵士もただの数字となり、破壊された家とその思い出はただのゴミとなる。

頭の中に、出会ってきた人々の顔が浮かぶ。苦しく貧しい生活であっても、かつて殺しあった宗派であっても、人々は生きていた。戦争がない、それだけで、人間は人間でいられた。

だからどうか、と伊吹は願う。


どうか、人であって欲しい。
どうか、人でいさせて欲しい。


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