第二話: Le plus important est invisible−9


「あ、あの!」


そこへ、五色が相変わらずでかい声で牛島に呼びかけた。さすがに牛島はぶすっとしていた表情を戻していつもの朴念仁然りといった感じに戻っている。
車はそろそろバック通りとの広い交差点に差し掛かり、丸みを帯びた角家の間の道からセーヌ川へと進んでいくところだ。


「どうした、五色」

「…あの、牛島さんは結局、伊吹さんのこと、どう思っているんですか」

「おお…」


思わずといったように山形が声を漏らす。まさかここでそれを切り込むとは思わず、川西も窓から車内に目線を移した。白布はいつもなら「ふざけたこと聞いてんじゃねぇ」くらいのことは言いそうだが、白布も驚きつつ牛島の回答を待っていた。
また、天童も「五色が恋バナ〜?」と茶化すところだが、何も言わず楽しげにするだけだった。


「どう、というのはどういうことだ」

「その…ものすごく伊吹さんだけ特別扱いですよね」

「おお…」


今度は瀬見が感嘆する。五色にしては言葉を選んだ方で、恋愛のことを直接出してもいい答えがなさそうな牛島に対して、なるべくダイレクトに聞くために良い言葉回しだった。


「…特別扱いか。そうだな、それは否定しない。他の隊員よりも好ましく思っている」

「おお…」


そして五色は牛島が比較的ストレートに言ったことで驚いた。しかしまだだ。牛島はこの程度の言葉ではその感情への理解度を測ることができない天然なのだ。


「こ、好ましくというのは…どういう類いものですか!」


天然とはいえもう20代後半だ、さすがにこの言い方で分からないほどアホでもない。五色の質問に、いつの間にか車内は牛島の返事を固唾をのんで待つ。
車はロワイヤル橋に差し掛かり、前方にはルーヴル美術館が見える。セーヌ川を渡る車が走る道は石畳の橋のためガタガタと揺れた。

牛島は五色に律儀に視線を向けるため振り向いていたのを前に戻し、青空の下、外壁が傷ついたルーヴル美術館と、1区や9区の方から煙が上がる街並みを見つめる。


「……初めて伊吹と出会ったのは、キルクークのキャンプだった。キルクークに派遣された文民で日本人は伊吹だけで、その警護をしていたが、ある日、その授業を見学する機会があった」


そうして牛島は、おもむろに過去の話を始めた。ある程度は聞いたことがあった川西たちだったが、直接本人から聞くのは初めてで、瀬見たちも少し驚いていた。


「『いつの時代も、人は人を愛してきた。だからこそ、人は人だった』…これは伊吹がその授業で言っていた言葉だ。多文化共生教育をしていた伊吹が重視していたのは、民族や宗教の違いを互いに受け入れることではなく、目の前の人間を人間として見て生活していくことだった」


伊吹がキルクークでどんなことをしていたか、こうして詳しく聞くのは初めてで、伊吹の言葉だという牛島の話は、川西にとっては心に刺さるものだった。
崩落した関門海峡大橋から落下した車から運び出された遺体が、和布刈神社に並べられていた。空軍だった川西は、あのときはパイロットではなく陸上での救援に当たっていて、その光景に愕然としたのを覚えている。幼い子供が青白くなって横たえられたところで、川西は貧血を起こし、別の仕事を割り振られた。
あれを見て、敵国に対して憎悪を向けないわけがない。自分が家族だったら、決して許さないし、死ぬまで憎み続けるだろうと思った。

それが、日本がかつて隣国にしたことだったのだ。それが、隣国の人々が日本に感じてきた感情だったのである。

ともすれば目の前にいる敵国の住民が女子供であっても、憎しみをぶつけていたかもしれない。しかし、牛島から聞いた伊吹の言葉にハッとさせられた。どれだけ人間を人間として見ることができるか、それが重要なのだと。

大切なものは、目に見えない。目に見える肌の色や顔立ちの違いではなく、目の前にいる人の内面が、何百万という″敵国の民″ではなく、たった1人の人間としてどんな人なのかが大事なのだ。
どんな時代であっても、人は人を愛することができる。普遍的に大切なことであるそれは、確かに目に見えるものではない。

牛島はなおも言葉を続ける。


「…帰国してから、伊吹はティクリートの惨状を知った。誰より平和を願って努力していた伊吹にとってはあまりに残酷で、毎日のように震えていた。そんな伊吹に、やがて国防軍は『ティクリートの怪物』と名付けた」


ティクリートのことを気に病んでいるところを、牛島や及川が支えていたという話は聞いた。しかし、牛島が語るのは、そのときの伊吹のことだった。


「一度、伊吹は俺に頼んできた。『殺してください』と。俺にそう言ったんだ。錯乱していた伊吹はそれを無意識に言っていたらしく、今はそう頼んだときのことを覚えていない。…俺は何も言えなかった。『そんなことを言わないでくれ』と、情けなく言うことしかできなかった。俺は及川と違って、誰かを励ましたり浮揚させたりできないのだと、己の無力さを知った」


車はセーヌ川右岸に入り、ルーヴル美術館の敷地を抜けて1区を北上していく。及川たちが戦闘していた区画だったのか、路駐された車が焼け焦げ、建物の壁面はところどころ傷ついている。
車内は今度こそ、誰も口を開けなかった。
本物の沈黙が、そこにあった。


「もともとキルクークで伊吹は守るべき民間人だったが、帰国してからはより、守らなければならないという気持ちが大きくなった。なのに俺は何もできなくて、そして伊吹は自力で立ち直って、今の立場でも人を守れるようになろうと努力することで気を紛らわせて、やがて本当に気にしなくなった。俺は何もできなかったのに、伊吹は俺のおかげだと笑って励ましてくれさえした。俺は、伊吹の強いところも脆いところも見てきて、そしてそういったものが伊吹のどんな考え方や性格に基づくものか知って、それを好ましいと思った」


泰然自若とした牛島はいつも堂々としているため、「何もできない」という言葉が出てくるとは思わなかった。本人はそう言っているが、しかし牛島の心からの肯定と好意が、伊吹を救っているのだとも見ていて思う。それをわざわざ牛島に言う必要はないだろう。言われなくても、きっと牛島も伊吹も分かっている。

牛島は振り向いて、小さく笑った。


「……これで答えになっているかは分からない。だが、俺の気持ちのすべてだ」

「…ありがとうございます」


聞いた当の五色は、気圧されたように礼を述べた。好きだとかなんだとか、そんなレベルの話ではないのだ。牛島と伊吹の間にある関係はもっと複雑で、誰も入れないものだった。

車は左にガルニエ宮殿を一瞬オペラ通りの先に見てから、引き続き北へと向かっていく。あと10分ほどでモンマルトル付近に到着する。
いよいよ、パリ解放作戦も佳境だ。


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